の続き的なやつです。
この件に限らず、「みんな」に向かって伝えたいなあということ。
(【じぶんがしたことは、じぶんに還ってくる】って前提で。)
それは、『じぶんでじぶんの首を絞めてることにきづいてる?』ってこと。
今回の件でいうと、ピエール瀧は他人であって、世間のルールから外れることをした「らしい」(まだ「容疑者」だからね)けど、
彼をただ血祭りにあげてそれでおしまいにするってことは、
じぶんもそうされるかもしれない可能性を作るってこととおんなじなんだよ。
なぜかっていうと、
じぶん自身が、じぶんが見る世界を作っているから。
(こないだも書いた。↓)
じぶん以外の大勢の人たちが悪いことをした人を血祭りにあげてる。
これはたしかに事実だし、変えられないんだけど、
それを「じぶんが」「肯定するかどうか」ってのは、選べるんだよ。
何も考えず肯定して賛成する=ただその流れに加担する
ってのも、もちろんいいんだけど、
そうすることで、じぶんがその世界観(世界の在り様)を「補強」しているからね。
「悪いこと」をすると社会的に殺されて、
二度と「生き返る(まっとうに暮らす)」ことを許されない。
怖いよね。
絶対にそっち側には行きたくないよね。
だから必死でルールというやつを守り(というか意識的には『破らないように』)、
怯えながら生きるんだ。
あれ?
ルールを破りさえしなければ安心なはずなのに、
なんでそんなに怯えながら生きてるんだろうね。
おかしいなあ。
ってぼくは思っちゃう。
まあ、
この記事はひとことで言うと『情けは人のためならず』ってことなんだけど、
調べてみたらこのことわざには続きがあるんだって。
それは、
『めぐりめぐって己(おの)がため』
なんだそう。
知らんかった。
意味を誤解して覚えてる人が多いらしいんだけど、
後のフレーズまで言えばわかるよね。
とはいえ、
なんでもさ、「実感」したことがあると『わかるわ〜!』ってなるけど、
それがどんなに「真理」であろうと「押し付ける」のは暴力でしかないし
(不安で、怖くて、じぶんを守ることで必死になってるような人には特に)、
どうしたらもっと相手の胸に「ぽすん」ておさまるように手渡せるかなって、
それを考えるのは、これからもぼくの課題だなあと思ってる。