何かに導かれているようなきがして、
そちらへと手を伸ばすと、
そこへたどり着くための次の手がかりや道標が示されたり、
びゅう、と突然後ろから追い風が吹いたり。
ぼくの場合、
用事があるからとかではなく「ただ会いたくて」会いたい人に会いに行こうとするとき、
どうやらこの「奇跡」は起きやすいようだ。
というか、じぶんでその奇跡を起こしていると今では思っている。
(奇跡をじぶんで起こせるんだと知った時のことについては、めっさ長いけどこちらをどうぞ)
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奇跡が、偶然なんかではなく(じぶんで動かし得る)「必然」なのだと理解すると、
「(じぶんでは如何ともしがたい)あらかじめ定められているもの」の意味でいわれる「運命」も、
実際は「如何ともできる」ものなんじゃないか、って。
つまり、
運命とは。
じぶんの意思(意志)で、
じぶんの「命」を、よろこばせたり、驚かせたり、踊らせてやろうと
じぶんで「運」んでいった先で立ち止まり振り返った時に見える、
じぶんが確かに踏みしめてきた
「まるであらかじめ定められていたかのような」その道のり(軌跡)や足跡のことを
「運命」と、そう呼ぶのではないか。
そんなことを考えた1日だった。