なんかちょっと、言語化できそうなきがして。
「自己責任」について。
ぼくは自己責任という言葉が好き。
好きというか、それを行動の礎にしたいと思っている。
他人のせいにするのって、単純にダサい。
「お前は○○だ」等と名指しで言われてない、攻撃されていないにもかかわらず
「私は傷ついた(傷つけられた)」なんて被害者ぶることは…ダサい。死ぬほどダサい。
そんなの、
『お前がお前自身をなめてんじゃねえよ』と思う。
まあ、楽だよね。
「被害者のフリ」をしてそのままでいれば、そこから踏み出さなくていいからね。
一歩を踏み出すための勇気を出さなくていいから。
絶対に誤解してほしくないから念を押すけど、
「攻撃的な言動や行動と感じてもそれは勘違いだから甘んじて受け入れろ」、では決してないからね。
「お前はダメだ」等とあなたの存在、尊厳をディスられたんなら話は別だよ。
そん時ゃ闘え。あなたの全身全霊を以って。
思うに、
「自己責任」という言葉に、苦痛だったり圧迫感を覚えるって人は、
程度の差はあれ、何かを他人のせいにしている部分があるのではないだろうか。
バカになる(何も感じず、考えなくなる)公教育を長年にわたり受け続けて見事にバカになった日本人たちの多くはあいかわらずバカにされたままだし、
きづいてないかもしれないから言うけど、
人が生きる上でそもそもの大前提が「自己責任」なんだよ。
こういうことを言うともしかしたら
「ひどい!教育を選べなかった人もいるんですよ!」などというバカな批判が出るかもしれませんが、その物言いがバカすぎる故、相手にしないのであしからず。
その人がそう感じることは自由だし、憤ることを否定はしないしできないけど、
個人的な不快を怒りにまで増幅させ、さらには「正しさ」にすり替えて人を攻撃する武器にするそのやり方は全くもって好きになれない。
対話は相互理解のためにとても重要ですが、
「それ」をコミュニケーションの方法として採用する方は、ぼくは対話の相手として認められません。
なんかまとまんなくなるきがしてきたけど…
「自己責任」って言葉に「重さ」はあると思う。
ただ、
その言葉を聞いて苦しく感じる人とそうでない(乗り越えた)人がいて、
何が違うかっていうと
「自己責任」という言葉を、
予め定まった(変わることのない)世界の中で
じぶんを囲い追い詰める概念として採用するか
覚悟をもってじぶんの理想とする世界を実現するために、
じぶんを自由にする概念として採用するか
ってことかな。
どちらを選ぶのもその人の自由だ。
ただ、最終的に選ぶ方は決まってると思うんだよなあ。
また追記してく、かも。
#えいっ