元日に実家に行き、甥っ子姪っ子と遊んだ以降、
(たまたま隣り合った/すれ違ったこどもと目配せしあうレベルのふれあいを除いて)
今日、実に18日ぶりにこどもとおもきし遊ぶことができて、
ハートが満たされた。
生き返った、と感じた。
年末年始で恒例の風邪をひき、
治って以降ずっと、脳みそをその処理能力的にパツパツにしながら生きていて。
体力は充分にあるものの、活力が体に行き届いていないというか。
ハツラツとしたものが感じられないというか。
そんな中、以前から小学生と幼稚園生の兄弟のシッターを頼んでくれる人からのSOSが届いた。
そして「9時から22時までなんだけどだいじょうぶですか…?」と。
13時間通しは、おそらく泊まりでない場合の最長記録を更新する。
前日まで引き続きパツパツであろうということはあらかじめわかっていて、
一瞬、体がもつかなあ?と思った。
じぶんを犠牲にして誰かをしあわせにしようと思っても、
長い目でみたらそれがじぶんをしあわせにしないことをぼくは知っている。
だから、無理はしないと決めている。
(それがベジーシッターであれ、お父さんバンクであれ。)
完全オフにしとけば、頭を休めることはできるし、体力を消耗することもない。
でも、
ぼくはこどもと遊びたいと思った。
二つ返事でオッケーと伝えた。
そして、今日。
くだらないことを言いあって、
しょーもないことをやりあって、
ふざけあって。
二人を自転車に乗せて公園に出かけ、
思いつくままに駆け出して。
じぶんの好きな人たちを笑わせて、
笑わせてもらって。
生き返った。
完全に、ザオリクだ。
以前から言ってるけど、
シッターで出張して出会う子は、
というか「こども」は。
もちろんじぶんの子じゃないんだけど、
でも、「ぼくのこども」で。
ぼくのこどもは、もうひとりの「ぼく」で。
それは、ぼくが持っている「もうひとつの命」で。
ぼくはぼくの「もうひとつの命」とふれあうことで、
よろこばせて、それが輝きを放つと、じぶんもよろこぶことを知っていて。
それを確認した。
知ってたけど再確認。
ちなみに、その輝きが曇ってたら、ていねいに包んで、拭いて、輝かせたい。
泣いてんのがダメで、笑ってんのがオッケーってことじゃなくて、
でもやっぱり、泣いてるよか笑ってる方が好き。ぼくは。
100悲しんでる人がいたとして、それはマイナス100だけど
プラス100たいせつにしてプラマイゼロに持ってったらそれで終わりじゃなくて、
その勢いでその人はじぶんのことをしあわせにしようとできる。
(心から)100笑ってる人は輝きがもう有り余っちゃってて、
他の誰かのことも輝かせることができちゃうんだけど、
それは100プラスにしたげたら100持ってかれる、というような数値の移動ではないんよね。
質量保存の法則の「外」の話なんだ。なんか知らんけど。
「等価交換」じゃないんよね。
じぶんではない誰かを、(無理矢理にでなくもうひとりの)じぶんとみなしてたいせつにすることができたら、
じぶんだけをたいせつにするよりもずっと、じぶんをしあわせにすることができる。
ありがたいなあ。これを知ることができて。
今、覚えていることができてて。
生きててよかったなあ。
信じてよかった。
死にそうな時って、多分この不可思議な法則のことを忘れてたり、その確からしさについて疑っちゃう。
いつも覚えてたいし、忘れても何度でも思い出したい。
何度でもここに戻ってきたい。
生き返れてよかったなあ。
生きててよかったなあ。