偶々、久しぶりに見た清田いちるさんのツイートがタイムリーだった。
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幸せは当たり前のような顔して一瞬やってくるので、つい当たり前のように受け入れてそのまま流してしまいがちだけど、「これ、幸せってやつだ!」と気づいたときは、その瞬間をできるだけ存分に深く味わうようにしている。子どもと手を繋いで歩いてるときとか。
— いちる ☁ bouncy 小鳥ピヨピヨ (@kotoripiyopiyo) 2019年3月17日
昨日ママさんからこどもたちを預かって移動するとき、
両側で手をつないで歩いてて、
『ああ、手があったかいなあ。しあわせだなあ。』と思ってた。
胸のあたりがふわふわとほどけてって、
じわじわあったかくなってく感じを味わっていた。
唐突だけど、
ぼくが世の親御さんたちと決定的に違うであろうと思うこと。
それは
「こどもと一緒に居られる時間が永遠には続かないことを知っている」ということ。
時間が来たら、だいすきなこどもたちと(また会う日まで)お別れしなければならないということ。
「その時」は必ず来るということ。
厳密に言えばそんなの誰だって知ってることだとは思うけど、
親御さんたちはこどもたちをたいせつに、一人前の大人に育てようとしてるから、
一緒にいる時間がずっと続く前提でいる人たちが多いきがする。
ぼくの場合は「そうじゃない」ことを切実に「わかってる」。
だからこそ、
どうやってこどもたちを笑わそうか、楽しませようか、
一緒に笑おうかってことを意識して接している。
たぶんそれは、
ぼくがこどものことを心底信じていて、
好きすぎて、
憧れにとどまることなく、
じぶんの手を伸ばしその手を取ってよろこびあおうとすること、
それによってこどもからも好いてもらえるということに、
より力を与えているきがする。
「循環」する流れが完璧に構築されている、というか。
でもそれは特別なことではなくて、
誰にでもできることで。
「その味わい」を思い出すだけでよくて。
ただ、至極シンプルなことなんだけど、
そこに至るまでの道のりに、みんなそれぞれにハードルがあるのよね。
その「思い出し方」の説明を、もっとうまくできたらいいなあと思う。