何者かになるためにじぶんに何かを足していく作業は、
きぶんは変わるかもしれないが、本質的な意味でじぶんを変えはしない。
それは服を着ているようなもの。表面的なもの。
「着飾ったじぶん」に、(つまり条件付きで)価値を見出すのなら、
その服に穴が空いてしまった時、流行に合わなくなったとき、
きっとあわてたり、不安になったり、困ることになるだろう。
(おしゃれが好きで服に命をかけてる人なんかは別ね。
「服を着たじぶん」に価値を見出すんじゃなく
多分「服を着るじぶん」が好きなんだと思う。そこに迷いはないんだと思う。)
じぶんが何者か(何がしあわせか、何をしてよろこぶか)をわかっていて
じぶんに何かを足していく作業は、その全てが経験値になり、自らの血肉になる。
そこに無駄はない。
もちろん無駄がいけない、という意味じゃない。
早いうちにじぶんのことをわかっておくことができれば、
もろもろのロスがなくて、長い目で見ればお得だってこと。
「がんばり続ければ、いつか本当のじぶんを見つけられる」というような発想が、
そもそも「今ここにいるじぶんを否定している」ということにきづけるか。
『あれ?もしかしてこの道には終わりがない?』って残酷な事実を受け止めらるか。
ある種の諦めと、覚悟が必要だと思う。
それは旅を終わりにする勇気とも言える。
ずっと目指していた目的地が、ずっと「今立っている足元」だったと知ること。
そしてそれを認めること。
それが本当にわかったとき、
そこから眺める景色は、
見慣れてたはずの、ただの平々凡々な日々に埋もれた景色は、
きっとわるくないはずだ。