相手がどれだけ正反対の意見を持っていたとしても、言葉を尽くして話せばわかってもらえる。
…とは、思わない。
「わかってもらえる」と、昔は思っていた。
そう信じていた。というか、信じていたかった。
「わかってもらえないこと」は当時のぼくにとって死刑宣告みたいなものだった。
のだけど、
お互いの心境とか、話す状況とか、使う手段とか、言葉のチョイスだとか色々あるわけで。
乱暴に言ってしまうと、もろもろひっくるめてバチッとタイミングが合わなければそんなの無理だよね。
「わかってもらえる」し、「わかり合える」。
…という言葉の裏に、無意識に隠していた「人と人とはわかり合うべきだ」という正しさ。
それを相手に強いていることに全くきがつかないくらいにはぼくは傲慢だったし、醜かったと思う。
「正しさ」を手にした時、人はどこまでも残虐に、暴力的になれる。
その醜さを一度でも知っていたことがある以上は、そうはならないように胸に刻んでおきたい。
今は、「人と人とはわかり合うことなどできないかもしれない」と思っている。
ただし、そこで止まるのでなく、そこから「始める」。
「それでもできることならば、わかり合うことができたらいいよなあ」と思ってしまう。
「もしかしたら、人と人とはわかり合えるのかもしれない」ってくらいの希望はいつだって残しておいてもいいと思うのだ。
ていうかそれはきっと、残しておかなければならないものだと思う。
マスクだろうがワクチンだろうがなんだろうが。
その人がちゃんと「じぶんで選んでいる」のであれば、それでいい。
たとえ大きな力によるものであっても、それを受け入れることをあくまでもじぶんが選択していることと、その責任とにきがついているのなら。
じゃないと、もし思い描いていたことと違う事態になった時にとてつもない後悔に襲われてしまうよ、って。
後悔というものを「じぶんが」嫌だからって、余計なお世話かもしらんけど、拙くても言葉で伝えたいと思ってしまう。
結局のところ、じぶんのエゴであって身勝手なことに変わりはない。わかってる。
だけど、大目にみてほしい。いいじゃないか。
『平行線の2本だが、手を振るくらいは。』
※はてなブログ管理画面の「こよみモード」にて表示された、ちょうど2年前の記事を読んで。
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