昨日もベジーシッターしてきて、とてもすてきな日になった。
夜帰宅しベッドに入って眠る前に『いつにも増してこんなあったかいきもちになったのはいったいなんでだろう?』と、一日を振り返って分析してみた。
したら、分析というほどのことでもなく、すぐにわかった。
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ぼくに託児のご依頼をいただく際の理由はなんだっていいんだけど、
親御さんのお仕事の都合で、ということが比較的多い。
そうするとたいていぼくとお子さんだけでお出かけしたり、もしくは家でお留守番をすることになるのだけど、
昨日は朝からお子さんとお母さんといっしょに、お母さんの実家におじゃましての託児になった。
それで、お母さんはパソコンを使ってのお仕事でとなりの部屋にいて。
その間ぼくとお子さんがリビングで遊んでて、おばあちゃんはキッチンでごはんの準備をしてくれてて。
みんなで昼ごはんを食べ、昼過ぎから公園へ出かけて遊びたおしているところへおばあちゃんとわんちゃんが散歩に来て、
いっしょに買いものに行って帰宅し、
出来事としての説明としてはそれだけなんだけど、じゃあいつもと何が違うって、
お子さんとぼくの周りに、近しい人たちが居たってこと。
そして、それが分析した結果であり答えで、
そこに居たみんなが「家族」で、それぞれが意識することなく自然と相手のことを想っていた、ということ。
4人と1匹(と1匹)が(「1匹」とのお別れというさみしい一場面を含めて)、メーターを振り切るようなアッパーなハッピーさでなく、ただおだやかに「家族」だった。
それを目の当たりにしたことと、その空間の中にいたこと。
そしてぼくは形としてはゲストだったんだけど、そのお子さんのことが大好きなことを皆とてもわかってくれていて、
「そこ」にとけ込んでいた、自然に「家族の一員」としてとけこませてもらっていたな、と。
それがとりわけここちよく、あったかかったんだ、と思った。
血が繋がっていてもいなくても、種(しゅ)が違っても家族になれる、家族でいられる。
友だちのようでいて、他人のように遠いこともある。
二度と触れることも、会うこともできなくなることもある。
それでもこの先、相手のことを思い出すたび、きもちはいっしょに居るのだと信じていられる安心感を、感じた。
そして、
これが思い悩む「ヒト」といういきものにとって希望でないとしたらなんだろうか、と思った。
ふだんぼくには祈るという習慣はないけど、これがずっと続きますようにと、祈りたくなった日だった。
おしまい(でも、つづく)。