わかり始めたmy revolution.
昨年10月頃から、自分を取り巻く環境が変わりだした。
自分が以前よりも「動き出した」ことが大きいように思う。
また、それは自分をよりオープンにして人に会い、
想いを伝えていったことと無関係ではないように思う。
何をしたっていい、どうなったっていい、と知っているはずなのに、
人一倍心配性で不安に支配されやすい自分を、
「正解」や「効率」を気にしすぎるあまり、
考え込んで動けないでいる時がしばしばある。
やりたいことを「やっていない」時、その足元は沼のようになっていると思う。
熟考と言えば聞こえはいいが、沼に足をとられて歩みを進めることができなくなる。
時間が経てば経つほど、深みにはまっていく。
たぶん、というか間違いなく、ぼくは怖がりなのだ。
ほんのささいなことにいちいちビビりまくり。
立ち止まったそこから、一歩、踏み出す勇気をだすことを、いつからかずうっとやってこなかった。(まあ、よくある話だ。)
「こうあるべき」、「こうなってほしい」という親心/親切心、あるいは期待という名のプレッシャーに反抗し、
「死なないために、ただ生きることの何がいけないの」と最低限の収入を確保し、ただ生きていました。
丁寧に。
しかし、漫然と。
ある時点で、「ただ生きる」ことに、飽きてきた。
放課後等デイに携わり、いろんな年齢の、様々な個性を持ったこどもたちと触れ合えるのは楽しい日々ではあった。
でも、もっと自分を楽しませてやろうと思った。
「何をしている時がいちばん幸せだろう?」
自分に問うてみた結果、出てきた答えは
「こどもに制約を課すことなく、やりたいようにやらせてあげて、いっしょに思いきり遊んで、笑いころげている時」だった。
ブログを作り、「こどもと一日遊ぶサーヴィス」をはじめた。
同時に、臆病風がどこからともなく吹きつけてくる。
『無償でこんなことをして、あやしいことこの上ない。後ろ指を指されたりしないだろうか』
そんなことはなかった。
あったのかもしれないが、自分がそれを見つけようとしない限りは、
それは「無い」のと同じだ。
『SNSのアカウントをさらして、面倒なことにならないだろうか?』
ならなかった。
むしろ入口が増えて、直接連絡をくれる人が増えた。
『ものすごく個人的な、情けない気持ちを、綺麗事を、かっこうわるい現状をさらけ出して、見放されたりはしないだろうか?誤解されたりしないだろうか?』
しなかった。
こんな更新頻度の低い貧弱ブログに綴られた言葉に、
「共感した」、「勇気づけられた」、「すくわれた」(!)とまで言ってくれる人たちが現れた。
なんてことだろう。
なんてすてきな話だろう。
ガクガク震える体に、「おいッ、しっかりしろよォッ!」と拳を胸に叩きつけ、
「一歩」踏み出したら、世界の方が勝手に、ほんの少し変わっていった。
いい方に。やさしい方に。
世界は、人は、やさしかった。
「自分を生きる」人たち
ぼくがやってきたのは、シンプルに自分がいちばん好きなことだ。
「こどもと思いきり遊んで、笑顔で親御さんに返す。」
いちばん好きで、命をかけられることを楽しんでやる、
そのためにいちばん必要なのは、「一歩」を踏み出すこと、
その勇気を出すことなのではないだろうか。
そして、ぼくが尊敬する今ぼくの周りにいて「自分を生きている人」たちも、
たぶんそうなのではないだろうか。
「とにかくやばいことをやる」いばやの人たち。
もはや説明不要の感すらある、
新潟生まれの不死鳥、ひたすら「自分」を生き続け、平成の吟遊詩人とも称される孤高のヴァガボンド(しかし彼の周りには笑顔の人が集まる)、いばや通信の坂爪圭吾さん。
“stay hungry, stay foolish”を地で行き(生き)続ける、神出鬼没のハートフルDA天使・PE天使コンビ、team-0の嘉向徹さん、保科亮太さん。
ハッピーとスマイルの権化、極彩色のメルヘンチックイラストレーター、MAYU CHAPAWONICAこと山倉麻由美さん。
ほんとはあまり人に教えたくない片瀬江ノ島にあるここだけ外界とは違う時間が流れる「幻」の古民家素敵カフェ、喫茶ラムピリカの千秋さん。
そしていばやの人たち以外にも、
「移動型座敷わらし生活」で全国行脚するその存在が「癒しの女神」、ボディセラピストでありイラストレーター、ハラフワティの村元里弥さん。
MAYUさんとコンビを組んでいる、その人その人のいちばん素敵な笑顔を引き出す天才で、旅するフォトグラファー、豊住千明さん。
算命学と臨床心理学を携え、人の人生に光と愛を見せる輝きの伝道師、秋田由里さん。
常識とそれに囚われた心を完膚なきまでに叩きのめし自由へと解き放つ愛のクリエイター、藤井みのりさん。
そのパートナーで、計り知れない妄想力を具現化し世界を騙す、やさしい天才詐欺師でユニークすぎるアーティストのカヤノヒデアキさん。
「インド人にしか見えない純日本人」などという説明がもはや不要の、ジェットコースターのような人生を送るマルチタレントブロガー、カルロスこと小林勝宗さん。
軽いノリで飄々と国境を飛び越え、適当なことをいいながらも誰一人傷つけず自分がいちばん楽しんでいる、現在はヨーロッパ周遊中のマルチリンガルブロガー、大胡田真隆さん。
ロンドンへの憧れを胸に、ツテもお金も語学力もない状態で単身渡英、逆境を楽しみながら突破し、美(とBeer)を愛するヘアメイクアップアーティスト、宮西亜季さん。
50円で自分の時間を出張レンタルしながら夢を追いかけ、人に問いかける若き哲学者(ときどき魔女っ子)。愛の爆弾、あいぼんこと平岡愛さん。
「トランポリンを担いで歩き、世界を笑顔でつなぐ旅」をする、誰よりも笑顔の持つ力とすばらしさを知る、空跳ぶ小さなパワフルガール、石原舞さん。
(ほんとは他にも紹介したい人がたくさんいるけど 、書ききれないのでまた(´;ω;`) )
それぞれが圧倒的な魅力とユニークさ、ぶっとんだ思考を持ち、しなやかに、しかし力強く生きる彼らは、非常識であったり破天荒なイメージを持たれるかもしれない。
しかし実際は、むしろものすごく「常識人」だったりする。皆人当たりがよくユーモアがあり、人となりはごくごく「フツー」の人だ。
ただ、「常識」を持ちながらも、それにとらわれずにいる人たちだ。
自分がたいせつにしていることにどこまでも真摯で、それを実現するために、実現し続けていくために、何度も何度も「一歩」を踏み出す勇気を出して、乗り越えてきたんだと思う。
(ぼくはぼくでしかないから、彼らのようになりたい、とは思わないけど、)
ぼくも、「そっち側」へ行きたい。
ぼくはアンパンマンになりたい
ぼくには夢というか野望があって、
誰に対しても分け隔てなく愛し守る、誰しもが知っているアンパンマン(のような人)になりたい。
そんなぼくに必要なのは、勇気だ。
愛は、もう持ってる。
こどもたちへの掛け値なしの愛情を、持ってる。
どんな子とも仲良くなれる「大好き!」を持ってる。
感じやすすぎて、何十年もあほみたく、小さなこどものように傷ついてきたからこそ、
どんな子の気持ちもわかる。共感できる。
もちろん、他人の気持ちなど本当の意味でわかりはしない。想像でしかない。でも想像は「できる」。ぼくは「あなた」の気持ちを想像したいと思う。
「あなた」にはなれない。だからこそ、あなたに寄り添える。いっしょに泣き、いっしょに笑いたい。
そんな気持ちを、持ってる。
ぼくに足りないのは、
その時、その都度、自分の本当の気持ちを素直に、世界に向かって放つための、
あとほんのひとかけらの勇気だけなのだと思う。
そして、その勇気も、必ずしも自分の中からしぼり出さなくてもいいことがわかった。
なぜなら、勇気は「もらえる」から。
勇気を出して、一歩踏み出してみたら、
自分の「大好き!」を放ってみたら、
なんのことはない、「だいじょうぶ」だったし、
そして、でっかい「ありがとう!」やウキウキする「またね!」をもらえて、
それらは等価交換の法則を完全に無視していて、
気づいたら使った以上の勇気へと姿を変え、ぼくのからだにチャージされていたのだった。
勇気を出したら、結果、それ以上の勇気をもらえた。
時折それを忘れてしまうけど、思い出すのだ、もう充分に「持っていた」ことを。
だから、なんのことはない、
ぼくはもう全部持っているのだ、必要なものは。
ならば、
持ったままただ生き永らえるか。
それとも、出しきって死ぬか。
ぼくは後者を選びたいと思う。
「ノブレス・オブリージュ。今後も救世主たらんことを。」
人間の本質は、愛だと思う。
誰もが、愛を持っている。
そして、愛を欲している。
生まれた時、赤ちゃんは善悪の価値観など持ち合わせていない。
泣き叫ぶのは、母や父を困らせたいわけではない。
ただ、愛を乞うているだけ。
愛されないと、たちまちのうちに死んでしまうから。
今、赤ん坊から成長したぼくやあなたはどうだろうか?
愛されなくても生きてはいけるだろう。ただ生きるという意味においては。
でも、「いきいきと」生きていけるだろうか…?
人はひとりでは生きていけないのだと思う。
麦わら帽子をかぶったある少年の言葉を借りると、
少なくともぼくは、人に助けてもらわないと生きていけない自信がある。
誰かを圧倒するような力も持っていない。
お金をたくさん稼ぐ術も持っていない。
多少料理は作れるけど、ウソもうまくつけない。
いわゆるいっぱしの社会人としての器じゃない。
そんなぼくに一体何ができるかといったら、
「こどもを、笑わせられる」。
そして、最近あらためてよくわかったけど、
「(育児経験がないにもかかわらず)お母さんたちからの子育ての悩み相談に乗って解決すること」。
「親御さん(特にお母さん)の、素直にこどもを愛したいという気持ちを自然に思い出させてあげられる」。
それらを指して、
「魔法みたい!」、「子育てをするママたちの救世主!」などとしばしば言ってもらえるようになった。
べらぼうに褒められて、もちろんすごくうれしいのだけど、
自分の中では、ごく当たり前のことをしているだけで、すごいことをしているという感覚はなかった。
でも、どうやら、すごいらしいのだ。
特別なものを「持っている」らしいのだ。
ここまで自分アゲをしておいてなんですが、
「どうだ、すごいだろう!」と言いたいわけではありません。
今の心境をなるだけ正確かつ簡潔に言葉にすると、
「どうやらすごいらしいので、どうか、ぼくを使ってやっていただけないだろうか?」という感じです。
「ノブレス・オブリージュ」という言葉がある。
フランス語で、意訳すると「持てる者の義務」という意味。
既に「持って」いる者には、自らが属する世界に対して果たさなければならない責任が伴う、という考え方のことだ。
世界を今よりもよくすることができる「力」を持っているのに、
それをしないのは世界の損失なのだと思う、というようなことを以前にも書いた。
ぼくや特定の誰かに限った話ではなく、誰でもがそうなのだと思っている。
「風前の灯火」から、「風船の灯火」へ。
人のやさしさや、まごころが「灯火」だとして、
ぼくのそれは、誰かのため息ですら消えてしまいそうな、弱々しい「風前の灯火」でした。
それがいまや、誰かの消えかかる火を蘇らせる、強くすることができるということを、知りました。
こどもの笑顔を咲かせるためなら、風に乗ってどこへでも、海の向こうへも行ける風船のようなフットワークはそのままに、たくさんのこどもたちや「あなた」のハートに火をつけ回る「風船の灯火」になりたいと思いました。
そしておそらく、それが現時点で最も効果的な自分の活かし(生かし)方だと思う。
ただ、
残念なことに風船は、自由ではあるものの自身の機動力というものがほとんどなく…。
だから、頼らせてください。
ぼくをすでに見つけてくれている人は、
また手を伸ばしてぼくをつかまえてください。
そして、お役に立てたなら(ていうか、立つ)、今度はぼくを必要としている人たちのところへ辿り着けるように、
「うちわ」くらいで構いません、扇いで風を起こしてもらえないでしょうか。
わりと文字通りのサンデーピープルになった今、
「自分で自分の風に乗って」いくことももちろんできるんだけど、
より遠くまで行きたいので、「あなた」の力を借りたいです。
自分で立ちながら、「人の間」で生きていきたいです。
世界一の何かになりたいとはあまり思いません。
ただ、
みんながいないと生きていけないけど、
みんなに助けられながら、みんなを助け、勇気づけられる、
そんな身近なヒーローになら、ものすごくなりたいと、強く思っています。