「自分はなにも知らないことを知れ」とつきつけられた言葉は、
それを望んでいない人からすれば、
ただ鞭に打たれる拷問のようなものなのかもしれない。
走る痛みによって思考が形をなすことなく、
滲む血は意欲を喪失させるのかもしれない。
「愛の鞭」という表現を振りかざすようになったら、
自己正当化のための道具として使うようになったら、
自分は「終わり」だと思っている。
それはもうただの通り魔だろう、と。
他人の自由を殺そうとするのなら、
自分が同じように他人から殺されたとしても文句は言えない。
ぼくはもちろん殺されたくはないから他人を殺しはしないし、
もし殺されそうになったら、文句のひとつも言ってやりたい。
とはいえ、
相手が受け取ったそれが全てだからねえ、
ぼくは人からしたら通り魔に見えるかもしれないなあ。
それでも、
絶対に通り魔になんて見られたくないから、
ぼくは自分からさらけ出してるんだと思う。
ひとりぼっちのトナカイを救った某ヤブ医者のように
丸腰で、というか真っ裸で
「おれは決して お前を撃たねェ!!!!」
って言ってるつもりなんだけどなあ。
…うん、そうだね!
通り魔でなく変質者として捕まりそうだね!泣
決して鞭じゃないんだけど、鞭だととられてるとして、
「鞭のち、腫れ」じゃなく
「鞭のち、晴れ」になったらいいなと、
誤解も、真実色に染まる日が来たらいいなと思う今日この頃。