ぼくはある時から、
「じぶんからたいせつなものを奪ったり、怒りや悲しみをもたらした人間であっても許さなければならない」なんて神ってる使命を勝手にじぶんに課していたのだけど、
ずいぶんと前から「平等や対等(という概念)の奴隷」でもあったから、
(※「誰もが同じように尊重されるのが望ましい」は裏を返すと『目には目を、歯には歯を』であり→「自分以外のやつを傷つけるやつは、傷つけられても文句は言えねえはずだよなあ、あぁ?」的な)
まあ、できないよね。
そして、それができないじぶんを責めた。
『やさしくありたいのに』と。
他人を許せないじぶんの存在が許せなくて死にたくなった。
(絶対にじぶんでは死なないと決めてるけど。それについてはまたの機会に。)
ある日、
愛するジョン・レノンを殺されたオノ・ヨーコが、ジョンを殺した犯人やじぶんを追い詰める人たちのしあわせを祈る(祝福する)ということを始めてみたら、
不思議なことに、状況に変化が起こった…というエピソードを見かけた。
元ネタはこれかな?
↓
これは新しい視点だった。
「許す/許さない」の二択ではなく、新しい選択肢ができた。
「許せない人の幸せを祈る」。
これは完全に矛盾しているようで、それでいて全く無理のない、とても自然な行為のように思えた。
以来、
すぐにはその心境になれなくても、
そこに帰ってこれるように、と意識しているじぶんがいる。
(オノ・ヨーコとは別のトピックで本質が)同じことを教えてくれたすばらしい人がいるのだが、
あるきっかけから、その人とは疎遠になってしまった。
その人はぼくに対してありえない!と思い(たぶん)、ぼくはその人に対して理不尽の極みだなあ、と思っていたのだけど。
皮肉なことに、ぼくは今その人のしあわせを祈っている。
「許す、許せない」で言えば全然許せてないんだけど(なぜなら、できることなら謝ってほしいなあと思ってるから)、笑
それを(忌み嫌って無いものとするのでなく)ロザリオやメダイのように手に握りながら、
その人のしあわせを祈ることができている。
これが相手に対してやさしいのかどうかはわからないけど、
前よかよっぽど、穏やかでやさしいきもちになれている。
まるで
暮らしを暖かく守ってくれる暖炉に、薪を焚べてその暖かさに包まれているようなきもちになれている。
こんなじぶんはなかなか、いや結構、
『わるくないな』と感じている。