『世界はじぶんでつくれる』って話。
世界ってさ。
物質としての、3次元の世界ってのがあるけどさ。
「ただ、ある」だけなんよね。
(ここでは量子論とか、観測できても目に見えないものは割愛するね)
でもその世界を「どのように見ているか」っていうまさに「世界観」は、単純計算で今70億通りはあるわけで。
過去も含めちゃったりしたら、そりゃもう天文学的な数値になるわけで。
そしてそれらは全て「ただ、ある(あった)」ってだけで、
それぞれ「正しい」のであって、ひとつとして「間違い」というものは無い。
なんかしらの基準となる点、線、範囲があって、ものごと(=事象)の座標が決まる。
そうして初めてあるものごとが基準に「反する」とかということが起きる。
事象自体には正も誤も、善も悪も、優劣もない。
あるのはその事象の観測のしかただけ。
「人は見るものを見たいようにしか見ない」って言うけど、
人ってそういうものだよね、ってだけで、
それは裏を返せば、「見たいように見ていい」ってことだからね。
世界の有り様について、じぶんで見方を決めていいってこと。
退廃的で暴力的で、悲劇的超えて残酷に見えてたからって、
それしかないってわけじゃない。
そうじゃないのがよかったら、探したらいい。
それでも、
探しても探しても、
やさしさのかけらもありゃしないって思ったら、
その時はじぶんでやさしい世界を「始めたら」いいと思う。
少なくとも、
あなたがそれを差し出してるうちは、
あなたがその世界をつくっているってことだし、
それは、とてもとても「確かなこと」だと思うよ。