予め言っておくけど、極論です。
(それでも、暴論ではないと思っている。)
およそすべての物事において
問題が問題として現われるのは、
問題を問題としてみなす視点があるから。
つまり、フラットな(ただそこにある)事象を問題として認識するじぶんがいるから。
心に余裕があれば(必ずしも満たされていなくともすきまがあれば)、
一般的に「よろしくない」とされることであってもたいていは
「ああ、それが、そこに在るのだな」と認識をするだけで終わる。
ただの事象に振り回されることがなくなる。
持っているお金がゼロになったら人生終わりだと思っている人はそこで絶望するし、
一週間何も食べなかったら死んでしまうと思っている人は死ぬ。
ほんとうはそうとは限らないのに。
自ら「ここまで」と線を引き定めた限界のイメージがあるだけで、
そんなもの、ほんとうはどこにもない。
(ただし、心と身体は繋がっていて互いの状態に影響し合う…
プラスに補われることもあれば、マイナスに引っ張られることもあるので、
一時的、瞬間的に心の余裕がありさえすればいいというわけではない。
波に揺られながらも、心に余裕がある状態を保ち続けようとする意識の方が重要かもしれない)
「全ての問題やトラブルを己自身で受け容れろ、乗り越えろ」等と言いたいのではない。
それができれば一番なのだろうけど、それを完璧にしてしまったら、人は独りになってしまう。
↓
心に余裕、余白を残すこと。
余裕がもしなくなってしまったのなら、「つくる」こと。
その重要性はすべての人が知っておいた方がいいと思っている。
あ。
ここまで書いて、イメージがふっと湧いた。
心がハッピーでないもので埋め尽くされているとよろしくないのは、
不要なものがぎゅうぎゅうで「心のまんなか」に容易に還れなくなるからだ!
ぼくは人間といういきものに性善説を採用したい派なのだけど、
じぶんと同様に他者のしあわせを望もうとする「本質」に立ち戻れなくなるからだ。
たぶん、いやきっと、そういうことだと思う。