突然ですが、
ぼくは、いつまでもこどもでいたいです。
(絶対に働きたくないでござる!的モラトリアムな意味ではなく。)
ぼくはもうずいぶん前にいわゆる「大人」になってしまったらしいので、「こどもにもどりたい」
と言った方が正しいのかもしれませんが、感覚としてより近いのは「こどもでいたい」です。
なぜ?
それは、かれらが自由だからです。
自分に正直に生きているからです。
常識やルールから解き放たれているから。
自由を、大人より小さなそのからだで体現しているんです。
そういう意味では、こどもはぼくにとって「憧れ」であり「希望」そのものです。
これまで、かれらから学ばせてもらったことがたくさんあります。
そう、「学ぶ」という言葉が出たところで、
こどもに対してなぜ教育をするのか、みなさんは考えたことはありますか?
「それはもちろん、こどもたちが社会で生きていけるようにするためだ」なんて思っている方は、
たくさんいるのではないかと思います。
しかし、ちょっとまってください。
疑問に思いませんか?
今ある社会に適応させるために既存の常識やルールを押しつけ、枠に押し込めることは、はたしてほんとうに「彼らのため」なんでしょうか?
それが間違っているとは言いません。
それもひとつの正解だと思います。
ただ、
ぼくらの人生の主人公が自分であるように、
かれらの人生の主人公は、かれら自身であるはずだと、ぼくはそう考えます。
おなじ「こどもたちを思う優しさ」であっても、
「うまく生き抜いていけるように、ぼくらがあれもこれも躾けて(与えて)あげなければいけない」と、
「自分で各々の幸せを見つけて(獲得して)いけるように、サポートしてあげられることはなんだろう?」は、
まったくアプローチの仕方が異なると思います。
その原因として、そもそも「幸せ」の捉え方が異なっているということも挙げられると思いますが、
それについてはまた別の機会に譲るとして、ぼくは、後者の考え方が好きです。
ぼくら大人は、年齢によってかれらの上のステージ(上下関係)に立っているのではなく、
同じ時間軸の、同じ地平の上で、たまたまかれらより先の方を歩いているだけなんだと思います。
人にものごとを教える【先生】って言葉は、
【「先」に「生」きている人】、そういう意味なんじゃないでしょうか。
だからぼくは別に大人というだけで偉いとか思わないし、
年齢なんて関係なく自分に正直に生きている、自分を貫いている人こそがすごい、偉いと感じてしまうたちなので
古今東西、いつどこであっても自分に正直に生きている「こども」という存在に憧れるし、
やっぱりこどもになりたい、こどもでいたいなあ、と思います。
以上、
ざっくりですが、ぼくがこどもとふれあいたい理由のひとつでした!