こないだ、所属していた放課後等デイサービスにお菓子を買ってあらためて挨拶に行ってきた。
あらためて挨拶といっても結局
「おつかれさまでーす、あ、お菓子買ってきたよー( ´ ▽ ` )ノ」
みたいな感じで、
自分が勤務していないというだけで、気持ちのつながりという点では以前からの延長線上にいるような気がした。
まあそんなに時間が経っていないというのももちろんあるのだろうけど。
でもそういう気持ちでいることで、実際そうなっていくものなんだろう。
前回の記事で書いたメッセージボードのことを、
『こどもたち、遊んでくれてるかなー』と気になっていたので聞いてみたら、
「みんな遊んでるよー!( ´ ▽ ` )ノ」とのこと。
よかったあ(๑′ᴗ‵๑)
そして探したら窓際のテーブルの上に無造作に置いてあった。
これも、よかったあ(๑′ᴗ‵๑)
どこに飾る/置くとか、どう扱うかは特にお願いしなかったんだけど、
どっか壁にでも掲示したまんまで固定されてるより、ずっといい。
車椅子の子もいるし、あちこち持ってって遊んでもらえてるのなら本望。
あれはこどもたちみんなに宛てた「手紙」であり、
既にぼくの手から離れたから、もう「彼ら」のものだ。
気になっていたことはもうひとつあって、
『どっか壊れてないかなあ?』と見てみると、
さっそく「だいじょうぶ」の「い」の横んとこがペラペラしていた。笑
おわかりいただけるだろうか
(「い」の横が剥がれて浮いてる)
さっそくスティック糊とテープを借りて、ちょきぺたして直させてもらった。
(正確にいうとハサミは使ってないから「ちょき」はしてないけど、「ちょきぺた」という響きが好きなのです笑)
さあ こどもたち!もっとハードに遊んでもいいぞ!笑
「またこわれたら、直しにくるから気軽に呼んでね〜( ´ ▽ ` )ノ」
とア○リカンホームダイレクト風の電話のジェスチャーをした。
(ちなみにアサノサンホームダイレクトと呼ばれています。ごめんなさい嘘です自分で言ってるだけです。)
さて、
ここからトーンを変えて、このメッセージボードに関係して最近思うことを。
こどもたちに『だいじょうぶ』をメッセージとして送った(贈った)のは、
伝えたいことだったし、ぼく自身が言われたいことばだったからなんだけど、
それは裏を返すと、
今、世界、少なくとも日本という国には「あなたはだいじょうぶじゃない」というメッセージが溢れているから。
そのメッセージが、(おまじないでなく)呪文が、気が遠くなるほど繰り返されすぎて、
「誰も彼も、決してだいじょうぶなんかではない」
という空気が立ちこめているから。
個人的には、『風の谷のナウシカ』の劇中の「瘴気」のイメージに近い。
ほんとうに多くのぼくら大人たちが「それ」に侵されてしまっている。
不安や危険、困難があるのはしかたがない。
生活範囲の中で起こる、背筋が凍るような怖い事件。
来る日も来る日も、抗いがたい不条理がまかり通っている。
肉眼で確認できないが確実に忍び寄ってくる危険。
そうして、カーテンが閉じていくようにゆっくりとその明るさを失っていく未来。
目を背けたくなるようなひどい現実が、目の前にどっしりと横たわっている。
(それらのうち多くのものが「造られた」ものだったりするんだけど、ここでは割愛します。)
「心配ごとは決して尽きることはない。」
「怖れろ、怖れたままでい続けろ。」
「他人はお前を傷つける。決して信じるな、疑え。」
「出る杭は打たれるぞ。」
「痛い目を見たくなければ、目立たないようにすることだ。」
「どこへ逃げても同じだ、今いるそこにいればいいんだ。」
「死にたくなければそこから出ようとするな、そのままじっとしていろ。」
「この凄惨な現実を、世界を見ろ。それに比べてお前など、とるにたらないちっぽけな存在なんだ。分をわきまえろ。」
まるで希望のない、「圧力」のようにぼくは感じる。
意地悪なんてもんじゃない。
「悪」でしょう。それは。
(もちろん正義/悪という二項対立の「悪」ではなく)
だって、
たとえ「こうしたほうがいいよ」っていうアドヴァイスの形であっても、
それはぼくらに対する思いやりなんかでは決してないもの。
信じてくれていないもの。
陥れようとしているもの。
経済とか、歴史とか、それに連なる現在の国際関係とか、複雑に絡み合っていること。
知ってはいるけど、ぼくには正直わかりません。
でも、それらを解決する、
完全な解決に至らなくとも、解きほぐす方に、今より皆が笑える方に持ってくために必要なことがどんなものなのか。
「それ」が、ほんとうはとてもシンプルなんだってことはわかってる。
みんな、信じたいのは「そっち」なはずなんだ。
それでね、
放課後等デイサービスに限らず、学校や保育園/幼稚園等、保育や教育の「場」にいる人たちが、
「周囲に、危険に満ちた世界に脅かされること」に対しての危機感だけでなく、
「このままでいること、それによって続いていく未来」に対しての危機感を持つべきだと思う。
いや、本当は、ぼくら大人全員が、なんだけどね。
ぼくらを産んでくれた、育ててくれたこと、これを恩とするなら父母たちには、
この恩はきっと「返しきれない」。
だから次の世代に「送っていく」ことしかできないし、それが理にかなっていることなのだと思う。
無垢な状態で生まれてきたこども(かつてのぼくら自身)がこの先もずっと笑っていられるように。
それが、望むと望まざるとに関わらず、「大人になってしまった」ぼくらの責任だろう。
だからぼくは、
「だいじょばない」を、なくしたい。
「だいじょうぶ!」に変えていきたい。
たぶんそっちのが、みんな、いいと思うんだよなあ。
前回の記事でこの辺、言い足りてなかったので、続きのつもりで書きました。
青臭いことわーわー書き連ねましたが、
ぼくはこの先も「根っこ」の話をしていきたいです。
最後まで読んでくれて、ありがとうございます!