いくつか勤め先や運営会社が変わったりしながらも、
足かけ5年以上続けていた放課後等デイサービスを辞めました。
別のとこに移るとかいうことはなく、完全に「卒業」です。
理由はいくつかあるけど、
主な理由は、
ぼく自身がやりたい方向とのベクトルが違うことに違和感を感じていたことと、
放課後等デイサービスの運営においては「業種」としての限界があると感じたこと。
それらはずっと前から感じていたことだったけど、
なんとなく、続けてしまっていた。
そこへ行けば、こどもたちの笑顔に囲まれて、
そして自分でそれをもっと「咲かせる」ことができて。
それはもう楽しかった。
それで、わりとバカばっか言っては、やってきたけど、
(大人なのに、『ふざけないで!真面目にやって!』等と叱られていたのはスタッフの中でぼくだけだろう)
こどもと向き合うということにおいて手を抜いたことは一度としてないし、
自分が思う「子育て」、そして「支援」を本気でやってきたつもりだ。
でもそれをずっと続けていくのは、
放課後等デイサービスという括りの中ではもう限界だな、と思った。
(決して、放課後等デイを否定したいわけではありません。方向性が違うだけ。
ちなみに利用者=こどもに対してスタッフがマンツーでつけるんだったら話は違ってくるんだけど、
これは様々な理由から現実的ではありません。)
こどもたちが
「社会に出て生きていけるように」、
「他人とうまくやれるように」、
「できることをひとつでも増やしてあげたい」。
放課後等デイサービスには、
(こどもたちを食い物にしてるだけの会社も今は増えてしまったけど、)
そんな想いを持って、真剣に子どもたちと接する人たちが働いています。
少なくともぼくが関わらせてもらった勤め先ではどこもそうでした。
ぼくも同じように願ってる。
ただ、ぼくは
放課後等デイサービスだけでなく、学校教育全般、ひいては社会に対して疑問を感じていて。
オトナのみなさん、
「社会」ってものが「(変容していくものだとしても)常に正しく、揺るがないもの」という前提で考えてやしない?
その今の「社会」、そして「教育」は、
こどもを今ある社会に「適応させよう」と彼らに強いているように思えてならない。
や、それは至極当たり前のことではあるんだけど。
でもね、
それは、「支配」だし、「コントロール」だし、
こどもたちへの侮りじゃないのかな?って思う。
彼らの力を、根源的な生命力をなめてんじゃない?って。
ぼくは、
こどもは可能性の権化だと思っている。
今の、特に日本の社会は、
こどもたちがその可能性を狭める方へ、自分で蓋をする方へと、追いやっているように思えてならない。
でも、そっちでなくてね。
「生きるって、楽しい!!」
極論すれば、
こどもたちがそう思える、強く信じることさえできるようになれば、
「そこ」まで一緒に歩いていくことができれば、
その先はもう大人が手を離したとしても「だいじょうぶ」なんだと思っている。
もちろん、苦痛や、困難や、理不尽なことが起こらないなんて言わないし、言えない。
でも、そんなのを全部ひっくるめて「だいじょうぶ」なんだと思っている。
さて、そんで、
この先、ぼくはぼくの「子育て」をどうしよっかなあ?って考えて。
現状でも、
週末メインで平均して月に1〜2回以上は託児だったり、
「こどもと遊んでもらえますか?」ってご依頼をいただいているのだけど、
もっと増やしたい。
『あ、たとえば保育士の資格なんかがあればぼくを知らない人でもぼくのことを信用してもらいやすくなるのかなあ』と思い、
それまで保育士資格は今からじゃ取れないものなんだと思ってたけど
気になってとりあえず調べてみたら、
放課後等デイサービス(旧:児童デイサービス)での勤務が「児童福祉施設において児童の保護に従事」として、
保育士の受験資格としてみなされるというのを
辞めた後に知ったんですね。笑
そんで、ざっと計算したんだけど、
その基準(総時間数)にちと足りない。笑
よし、じゃあ放課後等デイでなくても、対象となる児童福祉施設で
その足りない期間分だけ働いて、それで保育士資格を取ろうかな…
と一瞬思ったんですが、やめました。
だって、遠回りだ!!笑
受験資格を得られても、試験に合格しないとだから当然その勉強もせんといかん。
その時間を、ぼくはこどもと触れ合うことに使いたい!
そしてぼくという人間をよく知ってもらうために発信していくことに使いたい!
それにね、
ちょっと世間に、言ってやりたい。
フツーに、ジョーシキテキに考えたらこういう場合資格とるんだろうけどさ、
勉強に勉強を重ねて保育士だったり教職だったり資格持ってるパーフェクトでグレートな「先生」たちよりも、
何の資格も持ってない、日々「ただこどもと遊びたいだけです」とかほざいてるオッサンの俺の方が日本全国のこどもたちを超絶笑顔にして、彼らから絶大な人気を得たら。
(※こどもについて勉強することを否定する意図はないので誤解されませんように。ていうかぼくも勉強はするし。自然に、する。)
ひらたく言うと、
「俺の方がヤバかったら、どうする?」
って。
バカですか?
アホですか?
そうですか。
そうですね。
ていうかアホじゃなかったら、最初からこんな「こどもと一日遊ぶサーヴィス」とかせんと思う。笑
でもぼくは自分で言うのもなんだけど、
愛すべきバカでありアホですよ!( •̀ㅂ•́)و
そんで、
保育士のセンは消え、これまで何度も言ってきたとおり、ぼくは「こどもと遊びたい、笑わせたい」わけですが。
放課後等デイを辞めてしまったということは、
「日常的」にこどもたちと触れ合える機会が、基本なくなったということ。
公園に行ってこどもたちに声をかけてまわったりしたら、
こどもたちとは絶対楽しく遊べる自信があるけど、
それを見た周囲のオトナたちの通報によって確実に事案になりますよね。
それは、避けたい。笑
でね。
あともうひとつ言わせていただきたい。
ぼくがこどもと遊ぶ、笑わせる(そしてそれを通してこどもを育てていく)機会を逸したままでいることは、
それはもう、大袈裟でもなんでもなくて、世界の損失だと思う。
…って、
これはぼくに限った話ではなく、誰だってそう。
今このブログを読んでくれているあなたも、ぼくやあなたの知らないどこかの誰かも。
自分の好きなこと、自分を満たすものが「これ」とはっきりわかっていて、
そしてそれを実現できるだけの力を持っているのなら。
「それ」をして自分以外に喜ぶ人がいるのなら、
単純に考えてハッピーだって感じる人が多い方がいいじゃん。
この丸い地球の中では、人(そして動物)の価値観や利害が対立するのが当たり前。
それでも、
自分と、同時に自分以外の誰かが幸せになることを願う(呼び方は愛でも、良心でも、まごころでもなんでもいい。)その想いをね、
自分の中から放たない、放とうとしないのは、大袈裟でもなんでもなく、世界の損失だと思う。
版画家の名嘉睦稔(なか ぼくねん)さんが、
ぼくはこの言葉が、考え方が大好きだ。
「世界中の子どもたちがたっぷり幸せを獲得しても、この世の幸せは少しも減りません。」
ぼくなら、
彼らが「自分の力で」幸せを獲得するためのお手伝いができる。
だから、やる。
この先の展開がどうなっちゃうのか正直全っ然わからんけど、
それでもこの気持ちはきっと変わらないと思います。
やれることを、やっていきます。
そして、遊ぼう!!!