レクリエ日記(仮)

こどもが大好きで、いっしょに遊び楽しむことを通してこどもの「生きていく強さ」を育てたい『こども王子/こどもの笑顔クリエイター』、 「ベジ」こと浅野暁彦のブログです。(できる時に、更新。)

アンガー・アーマー

前回

 

recrea.hatenablog.com

 

からの続きの記事です。

 

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断続的にひたすら眠り続けた。

この数日を通してなんとなくわかったのは、「怒り」についてだった。

ぼくに心を開いていてくれるぼくの大切な、好きな人たちが気づかせてくれた。

 

 

ぼくは、たぶん17,8歳の頃から

「怒り」を「よくないもの」だと思ってきた。

それはある時期、「怒り」を無遠慮に叩き付けられ続けたことが原因だと思う。

「忌むべきもの」として、きっとその存在すら許さないようにしてきたのだと思う。

 

「怒り」を火、炎だとして、 

「消火活動」を自分自身で学び、有効な技を自分で編み出し、使いこなしていた。

「怒り」の炎に対抗するための頑丈な「鎧」もこしらえた。

 

ボヤ程度の消火なら慣れたもの。

よそ見していたってできるようになり、はや幾年。もう、ベテランの域だ。

ただ、あまりにも「上手く」なりすぎてしまった。

それは裏を返すと、「怒ることに極端に拙くなってしまった」ということだ。

 

そして、幸運なことに(実際はそうでもなかったと気づいたわけだが)、

ぼくはそのリアクションをとり続けることで、

これまた長いこと培ってしまっていた忍耐強さもあいまって、

大小さまざまな困難においてもそれなりに「うまくやれてきてしまっていた」。

 

それゆえ、あまりにも安易に、ぞんざいに。

「怒り」という存在を軽く扱うようになっていたのだと思う。

 

 

他人、そして自分の「怒り」に対して無敵のはずの鎧の中にはもうひとりの自分がいたのだけど、

「消火活動」を経て完全に鎮火したはずの一帯から、

なぜかまだ「火」が燻っていることに気づいた。

 

どこからだろう。(それもほんとうはわかっていたのだけど)

 

 

鎧の中だった。 

自分だった。

自分の腹の中から、

自分が自分を焼いていた。

 

「消火」はできていたけれど、

「昇華」はできていなかったのだった。

 

笑えない冗談だ。

(これが、ぼくが19で覚えたジョークだったのだろうか?)

 

ずっと見ないようにしていたことに、

見てみぬふりをしていたことに、

気づいてしまった。

気づかされた。

気づかせてもらった。 

 

 

「喜怒哀楽」。

 

人間のもつ代表的な4つの感情。

  

「喜・楽」が善く、望ましく、

「哀」は好ましくなく、

「怒」は悪で忌まわしく、許されないもの…

 

では、なく。

それらが等しく並んでいるということは…

それぞれのいろやかたち、性質が違うだけで、それらは同じように大事だったのだと。

たいせつに扱わなければならないしろものだったのだと。

 

その意味で、「感情」はそれぞれが「等価」だったのだと。

 

ぼくはその気づきを自分で口に出し、目の前にいたぼくの好きな人に伝えていた。

ひとしきり話したその後、その人は唐突にぼくに

 

「よし、怒りをちゃんと認めてあげよう。怒ろう。怒ってみよう。」

 

とある提案をしてきた。

 

『いやいや…それに気づけただけでいいし、なにも今わざわざ怒ることなんて…』と思ったのだが、

はっ、とすぐに思い直した。

 

ぼくがきちんと認めてあげていない「怒り」が、

ぼくに見捨てられたぼく自身の「怒り」が、

まだ燻っているのに容赦なく地面に打ち捨てられたままなんだと。

 

むしろ『今なんだ』と思った。

 

そして、

ぼくはその素敵で、無敵な「お誘い」に乗っかることにした。

 

打ち捨てていた「怒り」をひとつひとつていねいに拾いあげていき、

じっくりと眺めて、ゆっくり吐き出し始めた。

何度も、何度も吐き出した。

 

おかしな話なのだけど、

ぼくは腹から「怒り」を吐き出しながら、同時に腹から笑っていた。

でも一人だったら、同じやり方でもきっとそうはなっていなかっただろうと思う。

 

なんて素敵な話だろうと思った。

 

かくして、

ぼくを取り巻く「状況」はなんら変わらず、解決していないというのに、

ぼく自身の「中」は、一気に、まるで嘘のように晴れわたったのだった。

 

そのやり方を、「こうすればいいんだよ」と教えてもらった。

ほんとうにありがとう、と思った。

 

大袈裟に言うのならば、

誇らしげに言うならば、

 

ぼくは「また」、生まれ直せるのかもしれない!!!