レクリエ日記(仮)

こどもが大好きで、いっしょに遊び楽しむことを通してこどもの「生きていく強さ」を育てたい『こども王子/こどもの笑顔クリエイター』、 「ベジ」こと浅野暁彦のブログです。(できる時に、更新。)

ろっくんろーる 〜それでも君は笑い続ける その2

前回

recrea.hatenablog.com

からの続きです。

 

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ファーストスマイルを無事ゲットすることができ、ひと安心。

これで「いっしょに遊べる」
 
よかったよかった
 
 
…と思ったら大間違い!
 
 
ここからですよこどもを相手にして気を抜けないのは!
 
 
『体内に永久機関でもあるのかな?』
 
 
と疑いたくなるほどのスタミナ。
 
 
そして
 
 
『生き急ぎすぎじゃないのかな?』
 
 
とたしなめたくなるほどの、興味対象へのアグレッシヴなオフェンス。
バスケで例えるとラン&ガンというやつです。
 
 
息つくひまなど与えてもらえない。
だって、止まらないんだもん。笑
 
体力の限界なんて関係ない、
そもそもそんな概念がない。
ペース配分なんて考えてないんだから。
(だから突然電池が切れたように動かなくなるよね)
 
気に入ったことは繰り返す、
それが彼らのジャスティス。
 
 
さて、
「いっしょにあそぶモード」になって最初の彼の「ブーム」は…
 
 
おいかけっこ。
 
 
逃げるのはろっくん。
おいかけるのはベジ。
 
どんな感じなのか?
説明しよう!
 
 
まず、広いリビングを所狭しと駆け回ります。
やがてお気に入りのルートができあがります。
 
①全力でトタトタ走ります。
 
②声を出しながら笑います。
 
③ゴール地点(2階へつづく階段前のドア)に着いたら手をパーにしてばん!とドアにタッチ。
 
④おもしろいのでとりわけ大きな声で笑います。
 
最初に戻る。
 
 
これを8の字描くように、無限にくりかえします。
 
 
 
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これぼくなにやってんだろ、ねこのポーズかなあ笑
「にゃんにゃんがこっちにいるよ!」 って
 
 
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ぷーちゃんに興味しんしんです。
 
 
ちなみに
動きやすいようにとスウェットパンツを履いていったのですが、
『このままだと暑くて必要以上に体力削られる…!』と思い、
このあと、予備として持っていった真夏用のハーフパンツに着替えました。
(おいかけっこ中にリカコさんとさとみさんの死角に入った瞬間に着替えるという
 F1のピットクルーに負けない早業をやってのけ、ふたりをびっくりさせました)
 
 
 
次のブームは、ぷーちゃんを見にいくこと。
 
まず、広いリビングを所狭しとぷーちゃんをおいかけまわします。
興奮しトリッキーな動きをする1歳児にびびって、
ぷーちゃん、冷蔵庫の上(安住の地)に逃げます。
 
 
①ターゲット(ぷーちゃん)をロックオン。
 
②走ってキッチンへ。
 
③ベジが「3…2…1…」とカウントダウンをします。
 
④「それ〜!」とろっくんを抱きかかえてぷーちゃんを見せてあげます。
 
⑤確認できて、ぷーちゃんがかわいいので大きな声で笑います。
 
⑥リビングに走っていきます。
 
最初に戻る。
 
 
これを8の字描くように、無限にくりかえします。
 
 

今日はダブルチームでディフェンスしてくれるみのりさんはいないぞ!

 

はたしてベジの体力はもつのか!?

 

 

つづく!

ろっくんろーる 〜それでも君は笑い続ける

6月末に開催された、足もみ師さとみさんによる
さとみの足もみ4days@町田」。

 

そこにぼくが「ベジーシッター」として参加したときのレポートです。

 

イベントに先立ち、

このコンビでやっていきたいことやその理想について皆に伝えたい、広めたいと思い、

  • ベジってどんな人?
  • 「(出張)わたり子育て」について
  • 不安や怖れから遠ざけて育てるのってこどもの成長する機会を、可能性を奪ってない?
  • etc.

といったテーマで、

ツイキャスで【さとみとベジの「こどもちゃんねる」】という生放送もしました。

 

こちらの記事内に動画アーカイヴへのリンクがあります。

recrea.hatenablog.com

 

 

さて、本題。

 

会場となったのは町田市のとあるお宅です。

ひろびろとしたリビングがとても快適な自宅兼サロン。

 

こちらにはあまえんぼうさんな猫の「ぷーちゃん」もいます。

 

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くまのハンドパペットと遊ぶぷーちゃん。

丸々としてて超かわいい。(特におなかが)

くまには前回から小さな子と遊ぶときについてきてもらっています。(名前考え中)

 

 

そして、

今回ぼくと遊んでくれたのは…

 

1歳11ヶ月の「ろっくん」!( ´ ▽ ` )ノ

 

当日は暑い中、お母さんが額に汗してベビーキャリアでろっくんをだっこしてご来場。

ごあいさつをさせていただいて。

 

お母さんはリカコさんといって、

前回、片瀬江ノ島の素敵喫茶ラムピリカさんでのコラボイベントでの

お客様Cさんのお友達なんだそう。ご縁!\(・ᴗ・)/

 

ベビーキャリアからおろしてもらい、

 

 

ろっくんにもごあいさつ!

したけどちょっと、きょとーんとして、持ってきたお気に入りであろう新幹線のおもちゃで、ひとりで遊び始めた。

そりゃ、知らないとこで、知らないひとだもんね。

 

人となかよくなるにはやはり最初が肝心、

ここは勝負師ベジ、一発ジャブを入れとく必要がある…!

 

ということで今回ぼくが選んだ作戦は

 

 

「まねっこ」

 

 

これ。

マジ、鉄板。

 

熱い視線を送りながら、ろっくんが遊んでいる様子を「まね」して忠実に再現…。

 

ふと視線を感じてぼくに目をやるろっくん。

 

 

『なんかすごいガン見してるへんなやつがいる…(´・ω・`)』

 

 

『ん…?(´-`)』

 

 

『こいつ…動くぞ…!なんかぼくが動くと、こいつも動く…!(`・ω・´)』

 

 

『なんか動くタイミングが似てるな…動きかたも…?(´・ω・`)』

 

 

『あ…まねしてる…?(´-`)✧』

 

 

『まねしてる〜〜!!( ´ ▽ ` )』

 

 

 

 

はい…

 

 

ファーストスマイル…ゲットだぜ!!!

+。:.゚ヽ(*´ω`)ノ゚.:。+゚

 

  

つづく!

退化の会心

「喜び」、「楽しみ」、「悲しみ」も。

そしてもちろん、「怒り」だって。

出しちゃいけないことなんてない。

「出していいんだ」と、わかった。

 

それをしないために繰り返し何度も何度も、

自分で自分を連続殺人しつづけるよりは。

 

オトナなんて捨てたっていいじゃん。

こども返りでいいじゃん。

 

自分で14歳とか言ってるんだしな。

や、中2でもまだ分別ありすぎだな。

 

小学生でいいじゃん。

幼児でいいじゃん。

 

もしかしたらそれくらいの心持ちで、

ぼくなんかはちょうどいいのかもしれない。

 

こども心のままに、手を差し伸べていい。

ぎゅう、と思い切り抱きしめてあげればいい。

 

「助けていいんだ」とわかった時の、

おれの強さに限度なんてないんだから!

 

おれが、目の前で泣いてる人に対して全力でそうするように、

自分に対してだって、当然そうしていい!!

 

今回の「会心劇」をもって、「快進撃」を開始したい!!

アンガー・アーマー

前回

 

recrea.hatenablog.com

 

からの続きの記事です。

 

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断続的にひたすら眠り続けた。

この数日を通してなんとなくわかったのは、「怒り」についてだった。

ぼくに心を開いていてくれるぼくの大切な、好きな人たちが気づかせてくれた。

 

 

ぼくは、たぶん17,8歳の頃から

「怒り」を「よくないもの」だと思ってきた。

それはある時期、「怒り」を無遠慮に叩き付けられ続けたことが原因だと思う。

「忌むべきもの」として、きっとその存在すら許さないようにしてきたのだと思う。

 

「怒り」を火、炎だとして、 

「消火活動」を自分自身で学び、有効な技を自分で編み出し、使いこなしていた。

「怒り」の炎に対抗するための頑丈な「鎧」もこしらえた。

 

ボヤ程度の消火なら慣れたもの。

よそ見していたってできるようになり、はや幾年。もう、ベテランの域だ。

ただ、あまりにも「上手く」なりすぎてしまった。

それは裏を返すと、「怒ることに極端に拙くなってしまった」ということだ。

 

そして、幸運なことに(実際はそうでもなかったと気づいたわけだが)、

ぼくはそのリアクションをとり続けることで、

これまた長いこと培ってしまっていた忍耐強さもあいまって、

大小さまざまな困難においてもそれなりに「うまくやれてきてしまっていた」。

 

それゆえ、あまりにも安易に、ぞんざいに。

「怒り」という存在を軽く扱うようになっていたのだと思う。

 

 

他人、そして自分の「怒り」に対して無敵のはずの鎧の中にはもうひとりの自分がいたのだけど、

「消火活動」を経て完全に鎮火したはずの一帯から、

なぜかまだ「火」が燻っていることに気づいた。

 

どこからだろう。(それもほんとうはわかっていたのだけど)

 

 

鎧の中だった。 

自分だった。

自分の腹の中から、

自分が自分を焼いていた。

 

「消火」はできていたけれど、

「昇華」はできていなかったのだった。

 

笑えない冗談だ。

(これが、ぼくが19で覚えたジョークだったのだろうか?)

 

ずっと見ないようにしていたことに、

見てみぬふりをしていたことに、

気づいてしまった。

気づかされた。

気づかせてもらった。 

 

 

「喜怒哀楽」。

 

人間のもつ代表的な4つの感情。

  

「喜・楽」が善く、望ましく、

「哀」は好ましくなく、

「怒」は悪で忌まわしく、許されないもの…

 

では、なく。

それらが等しく並んでいるということは…

それぞれのいろやかたち、性質が違うだけで、それらは同じように大事だったのだと。

たいせつに扱わなければならないしろものだったのだと。

 

その意味で、「感情」はそれぞれが「等価」だったのだと。

 

ぼくはその気づきを自分で口に出し、目の前にいたぼくの好きな人に伝えていた。

ひとしきり話したその後、その人は唐突にぼくに

 

「よし、怒りをちゃんと認めてあげよう。怒ろう。怒ってみよう。」

 

とある提案をしてきた。

 

『いやいや…それに気づけただけでいいし、なにも今わざわざ怒ることなんて…』と思ったのだが、

はっ、とすぐに思い直した。

 

ぼくがきちんと認めてあげていない「怒り」が、

ぼくに見捨てられたぼく自身の「怒り」が、

まだ燻っているのに容赦なく地面に打ち捨てられたままなんだと。

 

むしろ『今なんだ』と思った。

 

そして、

ぼくはその素敵で、無敵な「お誘い」に乗っかることにした。

 

打ち捨てていた「怒り」をひとつひとつていねいに拾いあげていき、

じっくりと眺めて、ゆっくり吐き出し始めた。

何度も、何度も吐き出した。

 

おかしな話なのだけど、

ぼくは腹から「怒り」を吐き出しながら、同時に腹から笑っていた。

でも一人だったら、同じやり方でもきっとそうはなっていなかっただろうと思う。

 

なんて素敵な話だろうと思った。

 

かくして、

ぼくを取り巻く「状況」はなんら変わらず、解決していないというのに、

ぼく自身の「中」は、一気に、まるで嘘のように晴れわたったのだった。

 

そのやり方を、「こうすればいいんだよ」と教えてもらった。

ほんとうにありがとう、と思った。

 

大袈裟に言うのならば、

誇らしげに言うならば、

 

ぼくは「また」、生まれ直せるのかもしれない!!!

月に負け犬 海に遠吠え ぬくみ覚えし暁に

好きな人やものが多すぎることで

今のぼくが「見放されて」しまうことはないだろうが、

ここ数日でいろんな感情と向き合って、目がまわりそう。

もう少し見晴らしよくならないものだろうかと考えている。

 

決してぼくを見放さないであろう人から

「あなたならそれができるから」と無茶振りをされた。

 

現時点でぼくにとってそのミッションは、

イメージ的にはエベレスト登山くらいハードルの高いものなのだが、

おだやかな、でも力強くやさしい眼差しで「はい。」って登山道具一式をわたされると、

『う〜ん、まいったなあ…でもアタックするならいつがベストなんだろうか…

 向こう一週間の天候は…?』とか考え始めている自分もいる。

 

できないと思いこんでるからできないんだからね。

できる可能性はある。ゼロじゃない。

「ありえない」なんてことはありえない。

 

エベレストにだって登れるかもしれない。

でも「登りたい、登ってやる」と思えるようになるまでは、

とりあえずこのアイゼンとピッケルは傍らに置いておこう。

 

この週末は、好きな人たち(こどもを含む)と会って、

うれしいことやたのしいこと(しんどかった瞬間も)がありすぎて、

それらをまだうまくまとめられずにいる。

 

とはいえ、

再確認できたことがいくつか。

そして長いこと忘れてた(たぶん見ないようにしてきた)だいじなことがひとつあり、

それはまとめられるかな。

 

次回(自戒)に続きます。

 

↓↓↓

 

 

recrea.hatenablog.com

吾唯知足

「われただ足るを知る」と読みます。
ぼくが好きな言葉のひとつです。
(漢文なのでほんとうはレ点が入るんだけど省略されてます)


今の自分にはなにかが「足りてない」という前提だと、
そのなにかが得られないかぎり幸せにはなれない、ということになる。

ないものを追い求めるばかりでは、
ほんとうの意味で満足することがない
その姿勢においてはゴール=終わりはなく、
それこそが「不幸」なんじゃないの?と。

だから、
今あるもので充分だということ、
すでに「満ち足りている」ということを知ることが大事だよ。
それが幸せへの近道だよ。

ということだとぼくは理解しています。


「無い」の日に、
もうすでに「有る」ということをあらためて思いなおしました。


幸せはここに「ある」。
そこにも、あそこにも。
どこにでも。