レクリエ日記(仮)

こどもが大好きで、いっしょに遊び楽しむことを通してこどもの「生きていく強さ」を育てたい『こども王子/こどもの笑顔クリエイター』、 「ベジ」こと浅野暁彦のブログです。(できる時に、更新。)

ジューン・プライド

6月が終わりました。

 

ぼくの誕生月のこの1ヶ月は、

自らの自尊心との闘いでした。

 


自分自身のことは大切にしてあげていい。

ありのままで既に素晴らしい自分を認めてあげればいい。

でないと、「生き苦しく」なるから。

自分以外の誰かの人生を生きることになってしまうから。

 

自分で自分を糧にして、

自分を活かし生きていく。

そのためには自分自身を大切にしてあげなければならない。

 

 

でも、ひょっとしたらー。

 

 

自分を大切にしようとする「自尊心」というやつは、

そんなにかわいがるものではないのかもしれない、と思った。

 

自尊心を両手で包み込むように、

だいじにだいじに、守ろうとするばかりでは、

自尊心は育っていかないのではないだろうか。

 

両手で覆えるくらいの大きさに留めておく必要なんて、ないのではないだろうか。

両腕で抱えるような大きさに膨らませることだって、できるのではないだろうか?

 

平時においては、

自分の確からしさをからだに纏っていられるように。

 

逆境においては、

自分を奮い立たせ、強く推し進めていくことができるように。

 

底なしの闇に飲まれてしまったとしても、

手を伸ばし、手繰り寄せることのできる微かな光に。

 

できるのではないだろうか? 

 

 

ぼくは、

なにがぼくのしあわせか、

なにをしてよろこぶのか、

知っている。わかっている。

 

笑っていたい。笑わせたい。

自分と、誰かを幸せにしたい。

だから人に優しくなりたい。優しくありたい。

 

そんな数々の身勝手なエゴを携えたまま

 

「どれくらい遠くまで行けるのか」。

 

わからないままおわる…なんて、

 

そんなのはいやだよね?と。

 

 

6月最後の夜、疲れ果て回らない頭の中に浮かんだバラバラのイメージを掬いとり

つなぎ合わせ、目をこらして見てみたら、

あのうたに乗せたメッセージが浮かび上がってきたのでした。

 

勝ったか負けたかわからないけど、

脚を繰り出し続けられる限りは、前に進み続ける自分でいたいのだと思いました。

 

 

それではことしの「後半戦」を始めます。

さあ、さっさと「遊ぼう」!!!

カリスマ◯◯。

むかし、「カリスマ店員」って言葉が流行りましたよね。

 

カリスマ【(ドイツ)Charisma】

1 《ギリシャ語で、神の賜物の意》超自然的、超人間的な力をもつ資質。預言者・呪術 (じゅじゅつ) 者・軍事的英雄などにみられる、天与の非日常的な力。…

2 人々の心を引きつけるような強い魅力。また、それをもつ人。「―性のある人物」「ファッション界の―」

 

dictionary.goo.ne.jp

 

 

「カリスマという言葉が安くなる!けしからん!(# ゚Д゚)プンスコ!!」とかなんとか、

エラ〜イ感じの人が当時TVだかで言ってた気がしますが。

 

 

それで、

結構前からね、ぼくはなりたかったんです。

 

カリスマ店員…ではなく、

 

 

「カリスマお客」に。

 

 

「カリスマお客」とは?

一般的な「奉仕する側/される側」の立場が逆になっただけです。笑

(お客さんが偉いなんていうのは大間違いで、もともと対等なんだけどね。)

 

「カリスマお客」は、

店員さんに気分よくなってもらうために手を抜かない。

だから笑顔でちゃんと目を合わせて。

挨拶やお礼を言うのは当たり前。

 

いかに店員さんに仕事をスムーズに進めてもらうかも重要。

そのためにできることって、たくさんある。 

たとえば飲食店なら、オーダーはできるだけまとめてとか、
帰るときに食器を種類ごとに重ねて通路側に置いとくとか。

 

「あのお客さんが来るとなんかいい気分になるんだよね〜」
「あのお客さんが来ると仕事が捗るわ〜」

 

最終的には
「あの『お客さん』にまた会いたい、来てほしいな〜」というところを目指しています。
( ´ ▽ ` )ノ

ムチノチ。

「自分はなにも知らないことを知れ」とつきつけられた言葉は、

それを望んでいない人からすれば、

ただ鞭に打たれる拷問のようなものなのかもしれない。

 

走る痛みによって思考が形をなすことなく、

滲む血は意欲を喪失させるのかもしれない。

 

「愛の鞭」という表現を振りかざすようになったら、

自己正当化のための道具として使うようになったら、

自分は「終わり」だと思っている。

 

それはもうただの通り魔だろう、と。

 

他人の自由を殺そうとするのなら、

自分が同じように他人から殺されたとしても文句は言えない。

ぼくはもちろん殺されたくはないから他人を殺しはしないし、

もし殺されそうになったら、文句のひとつも言ってやりたい。

 

とはいえ、

相手が受け取ったそれが全てだからねえ、

ぼくは人からしたら通り魔に見えるかもしれないなあ。

 

それでも、

絶対に通り魔になんて見られたくないから、

ぼくは自分からさらけ出してるんだと思う。

 

ひとりぼっちのトナカイを救った某ヤブ医者のように

丸腰で、というか真っ裸で

 

「おれは決して お前を撃たねェ!!!!」

 

って言ってるつもりなんだけどなあ。

 

 

…うん、そうだね!
通り魔でなく変質者として捕まりそうだね!泣

 

 

決して鞭じゃないんだけど、鞭だととられてるとして、

 

「鞭のち、腫れ」じゃなく

「鞭のち、晴れ」になったらいいなと、

 

誤解も、真実色に染まる日が来たらいいなと思う今日この頃。

あなたとともにある きたい

自分が傷つけられることが「無い」とわかるまで、

相手に受け入れられることが「保証」されるまで、

 

自分をさらけ出さないでいる人のなんと多いことか。

というか、むしろそれが普通というやつなんだろう。

かく言う自分だってずいぶんと長いことそうだった。

 

それは人の弱さだよ、と言ってしまえばそれまでだけど、

そこで止まってしまったら、悲しくなりはしないかい?

 

誰だって人にはそれぞれ笑えない背景があるんだろうし、

死ぬかもしれない危険を冒せない理由もあるんだろう。

 

でも、

安全地帯(それも思い込みでしかないんだけど)で、

何重にも重ね着した鎧と、持ちきれない量の武器で完全防備して、

「ここにいれば安全なんだ」と自分に言い聞かせて。

 

そんなことしなくたって、

もうすでに自分は「だいじょうぶ」なことに気づいてほしいんだけど、

どうしたらそれを伝えることができるのかわからず途方に暮れて、

言葉の限界を感じることがある。

その人の人生だからその人の好きにすればいいんだけど、

できることならいっしょに歩きたいと、期待してしまう。

 

 

自らとびこんで“wild side”を闊歩する人たち。

世間では彼らを「馬鹿」と、そう呼ぶのかもしれないけど、

たとえ震えるほど怖くてもドアを開け向こうに踏み出して、

喜びにからだを打ち震わせながら歩いていこうとする人の方が、ぼくは好きなんだ。

 

 

 

P.S.


www.youtube.com

名前をつけてやる

名前をつけることにこだわりがあります。

 

ブログのサブタイトル(各記事の題名)もそう。

 

われながらばかだなあと思うんだけど、

本文は出来上がっているのに、記事のタイトルが決まらずに30分考えたこともある。

 

ブログ執筆のセオリーとしては、

読者目線で考えて、内容の要約を一文で把握できるタイトルにするのが正しいとされていると思うんだけど、

自分はそれはあまりしたくない。

 

暗喩であったり、

好きな曲のタイトルだったり、その歌詞の一節だったり、

好きな漫画のタイトルだったり、その中の台詞だったり。

それらの引用がちょいちょい、というかかなりあります。

わかる人にしかわからないような。

 

名前をつけることに関しては、

他人にとってわかりやすいかどうかより、自分の納得感を優先させてます。

 

ものごとの本質を射抜くことができるとうれしい。

自分が吐き出したものならなおさら。

やってやったぜ!ってハイになる。

 

前にも書いたかもしれないけど、

「こどもと一日あそぶサーヴィス」って名前には納得いってない。笑

だから今も考え中です。

 

あ、それで

また出張してこどもと遊んできたので、そのレポートを書きますね。

たぶんまた何回かに分けてシリーズ化する気がしてるけど、

タイトルまだ思い浮かばない…。

けどまあ書いてるうちになんかひらめくでしょう。笑

 

お楽しみに!

 

P.S. 

今回は町田市だったんだけど、

前回の『藤沢ランデヴー』続きで、『町田ランデヴー』にはならない気がする。

ていうかしない。

(´-`).。oO(なんか語呂がいくないし…

 

P.S.のP.S.
『藤沢ランデヴー』の元ネタは

U-zhaan × rei harakami / "川越ランデヴー"という曲です。


U-zhaan × rei harakami / リアル"川越ランデヴー"

笑ェないせぇるすまん

昼間在宅中にチャイムが鳴って、

インターホン(カメラはない)で出てみたらどうやらセールス?らしい。

 

これがもうどこからつっこんでいいかわからないくらいダメダメなやつで、

今日はそいつのことを。

 

チャイム「ピーンポーン」

 

ベジ「はい?」

ダメ男(以下、ダメ)「………」

 

ベジ「…はい?」

ダメ「…はぁ〜、バッバッ(ため息&服についた雨を払ってる?)」

 

ベジ「(呼びだしといて待たすのかよ)どちらさまですか?」

ダメ「あっ!どうもこんにちはー」

 

ベジ「はい、どちらさまですか?」

ダメ「えっと〜ナンチャラ協会の方から来たんですけどもお(口調がチャラい)」

 

ベジ「(質問に答えろ)…どちらさまですか?」

ダメ「自分この辺を回らさせてもらっててえ」

 

ベジ「(個人名はともかく社名くらいは名乗れよ)どちらさまですか?」

ダメ「あ、なんでえ、自分この辺を回らさせてもらっててえ」

 

ベジ「(だから質問に答えろ)どちらさまですか?」

ダメ「あ、なんでえ、自分この辺を回らさせてもらってる者なんですけどもお」

 

ベジ「…ご用件はなんですか?」

ダメ「こちら屋根の上に太陽熱温水器あるじゃないですかあ」

 

ベジ「(用件を言えよ)ありますねえ」

ダメ「メンテナンスってどうされてます?見た感じだいぶ古いんでメーカーさんの補償も切れてると思うんですけど」

 

ベジ「(メンテのセールスだろ)えーと、ご用件はなんですか?」

ダメ「あれってえ、ちょっと見させてもらったんですけどホースの留め具とかちゃんと留まってなくて危ないと思うんですよね」

 

ベジ「ご用件は?」

ダメ「見てもらったらわかるんですけど、危ないんですよ」

 

ベジ「ご用件を。」

ダメ「なんでえ、ナンチャラ協会の方から来ててえ、この辺を回らさせてもらってるものなんですけど」

 

ベジ「(だめだコイツ…はやくなんとかしないと…)太陽熱温水器まわりのもろもろのメンテナンスサービスのセールスということですよね?」

 

ダメ「や、太陽熱温水器とあわせてその留め具の固定とかも見させてもらうんでえ」

 

ベジ「えーと、結構です」

ダメ「もう他の業者が来てたり、頼まれてるってことですか?」

 

ベジ「別にどこにも頼んでませんが」

ダメ「だったらうちでやらせてもらうんでえ」

 

ベジ「そちらだけでなく他にお願いするつもりも予定もありません」

ダメ「えっ、あのままほっておくんすか」

 

ベジ「そうですね」

ダメ「えっ、だって留め具留まってないんすよ、知ってたんですか」

 

ベジ「いいえ、知りませんでしたけど」

ダメ「危なくないと思ってんすか?大きな地震とか起きて外れて落ちたりしたら危ないじゃないですか!(怒)」

 

ベジ「(なんでちょっとキレてんだよ)危ないですねえ」

ダメ「だったらやらなきゃ危ないじゃないですか!(怒)」

 

ベジ「そうかもしれませんが大丈夫です(やるとしてお前のとこにだけは絶対に頼まんから)」

ダメ「危ないのほっとくんですか?(怒)」

ベジ「大丈夫です。」(食い気味に言い放つ)

 

ベジ「今いそがしいんで」

ダメ「や、ちょっと」

 

ベジ「切りますねー(願わくばお前との縁も永久にな)、ガチャ」

 

 

飛び込み営業が大変なのもわかるけど、もすこし勉強してこようね…

とくに口のききかたと相手の気持ちの汲み取り方をさ…

 

 

こっちの気持ちを手玉にとってくれるセールスなら、

口車に乗ってあげてもいいんだけどなあ。

 

もすこしうまぁく、くすぐってくれ〜(´;ω;`) 

うつくしさ 俺 シャワーの中で魔法をかけて

朝や昼間にシャワーを浴びると、

窓から日光が射してきて、自分のからだをよく見ることができる。

(ベジは普段明かりを点けずに暗闇の中で風呂に入ったりシャワーを浴びます。)

 

昔は自分のからだのあちこちに対してコンプレックスを持っていて。

 

頭でっかち、天然パーマ

一重のまぶたに小さな目

小さい手にごんぶとな指

でかいプリケツ、太い足

 

でも少し前から気にならなくなった。

 

 

今は、

ああ、素敵だなあ、うつくしいなあ、と見とれてしまう。

 

体の凹凸。

 

肌が水を弾く様。

 

 

そう思うようになったのはいつからだろうかと考える。

何かきっかけがあったのだろうか。

 

軽い筋トレを毎日の日課としてから一年余が経ったんだけど、

(ぼくはベジタリアンゆえ、筋肉を肥大させるにはおそらく一般の人よりハンデがあるんだけど、それでも)

何ヶ月かしてその効果が目に見え始めてからが、特にそうだったかな?

 

 

美しさとは。

何かと比較してではなく、すべては既に美しいのだけど、

さらに善くなろうとするその姿勢の中に宿るのかもしれない、と思った。