今回書くのは悲しかった話で、
楽しい話ではないし、
いつも以上に乱文で、
基本的に吐き出したいだけで、
八つ当たりみたいなものなので、
気にされる方はこの先は読まないでください。
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先日、楽しみにしていた【秘境祭】という友人が主催する音楽フェスティバルに行ってきたときの話。
大自然に囲まれたロケーションで、まさに「秘境」といえる趣き。
記憶が確かなら、3年ぶりの参加。
今回は、先日の記事で触れたNETWORKSも出演するし、
これは夜の自然の中でぜひとも観たい!と。
フェス自体は昼からやっていたのでけど、
ぼくは日中の予定があって、夜から参加することに。
NETWORKSの出番に間に合うように行こうとすると、
電車で最寄りの奥多摩駅まで行けても会場までのバスがないので、バイクで行くことにした。
iPhoneをナビにして、家から2時間弱。
途中雨も降ったけど、ほとんど濡れず。
出発時にはギリギリだった到着予定時刻も、
順調に進み、結果NETWORKSの出番まで余裕を持って到着できそう。
会場まであと、約700m。
そこに、いた。
道の真ん中に。
「動かないもの」が、いた。
子猫だった。
それが何なのかを瞬時に理解し、息が喉の奥で詰まった。
その瞬間、脳内では言葉にはなっていなかったけど、
言葉にすると、
『ああ!!!また…!!!』
と思った。
「また」。
ーーそれは、ぼくがベジタリアンになったきっかけだった。
9年前に当時の仕事の夜勤明けで帰宅すると、
自宅マンションの前で猫が轢かれて道端に放置されてたことがあって、
植え込みに移しタオルにくるんでシーツをかけひとりで葬式をしたこと。
(忘れ去ってしまいたかったから?)今となってはなぜか記憶があいまいなのだけど、トリガーとしての出来事はたぶん、それだ。ーー
避けて、横を通り過ぎた。
こみ上げてくる何かとともに、恐る恐る、震えた息を吐き出した。
情けない声が一緒に漏れ出した。
自分に言い聞かせた。
『泣くな。』
『こらえろ。』
『もう動かない。』
『「助かり」はしない。』
『行ってどうする、意味がない。』
アクセルを緩めず、そのまま会場まで行こうとした。
でも、できなかった。
ウィンカーを出し、路肩に停車した。
もう、だめだった。
頭の中はぐちゃぐちゃで、
涙が溢れてきて止まらなかった。
あと少しだったのに。
いっそ、気づかなければよかった。
そう思った。
なんでだよ。
なんで、ここで?
なんで、今なんだよ。
今から楽しみにしてたフェスなんだよ。
それなのに、なんで?
なんで?なんで??なんで???
なんで、また?
なんで、俺?
なんで、あの子…?
偶然だ。たまたまだ。
関係がない。
関係などあるわけがない。
でも。
後からの車があの子をまた轢くかもしれない。
避けられても、事故につながるかもしれない。
周りを見渡しても手伝ってくれる人は誰もいない。
俺しか、いない。
俺が行かないと。
気づいた俺が行かないと。
フェスに参加するかどうかはともかくとして、俺が行かないといけない。
そう思った。
それにあの子を放っておいたままにして、頭の中から追い出して、
フェスを思い切り楽しむなんて絶対にできないことは、はっきりとわかっていた。
戻ろう、と決めた。
決めたけど、怖くてしかたがなかった。
泣きながら戻った。
『いやだ、行きたくない…行きたくない…』
『でも行くんだ…行くんだ…』
頭の中で二人の自分が煩かった。
そして、先程と同じ場所に戻ると
その子は、やはり先ほどのままだった。
一瞬、キラッとふたつの小さな光がこちらに反射した。
目が開いたままだったのだろう。
それも「前」と同じだった。
後続車はまだなかった。
また横を通り過ぎて、来た道の進行方向にUターンし、
手前でバイクを停めて、そうしている間に後続車が来ても遠くから視認できるようヘッドライトでその子を照らした。
自分の覚悟が揺らいでしまわないように、「これからすること」の準備を進めた。
ヘルメットを脱ぎ、リュックから、白地のパンダの絵が入った手ぬぐいを出した。
「前」と同じように、せめてもの弔いの意味も込めてくるんであげようと思ったからだ。
(パンダ好きな僕にプレゼントとして人からもらったものだったのだけど、
そのように使えるものではもうひとつ、タオルがあったのだが、
それは派手な色柄だったので意図にそぐわないと思ってやめた。)
手ぬぐいを手に持って近づいたが、
しばらくの間、立ちすくんだままその子を見下ろしていた。
触りたくない。
「抜け殻」に、触れたくない。
「死」そのものに、触れたくない。
怖い。
だけど。
あそこで血を流して横たわっていたのは。
全く関係がなく、同じ人間という種族ですらない。
それでも、ぼくはあの子をもうひとりの「自分」だと認識してしまっていたから、
助けないわけにはいかなかった。
「命」は助からない。
もうそこに、ない。
それでも、「助けて」やりたかった。
それくらいの「救い」があっても、いいはずだろう。
救う対象が「自分」であるなら、なおさら。
深呼吸をして、屈み。
手ぬぐいでその子を下から持ち上げようとする。
触れた時、ぞわぞわした。
体温はなかったが、身体は硬直はしていなかった。
柔らかく、ぼくが知る猫がもつ「弾力」があった。
ただ、寝ているだけのようにも思えた。
一度目は持ち上げられなかった。
体の下への手の差し入れ方が浅かったのと、
腕と手に力が入れられなかったから。
二度目は、体の下に深く手を入れて、持ち上げることができた。
立ち上がって、道路脇の草むらへ移そうとした。
重くて持っていられない、と思ったけど、
そうではなくてやはり震えて手に力が入らなかっただけだった。
自分の手じゃないみたいだった。
草むらの中へそっと横たえ、手ぬぐいでくるんだ。
手を合わせた。
ぼくは仏教徒じゃないのに、なんで手を合わせてしまうんだろうね。
でもある人が言っていたよ。
「この方が気持ちが入るんだ、いいじゃないか」って。
頭の中ですら言葉になっていなかったけど、
目を閉じたまま、祈った。
言葉にすると
ごめんね、とか、
もう苦しくないとか、
あなたのことを想ってるよ、とか
そんな感じだったと思う。
もうずいぶんと遅くなってしまったが、もしかしたらまだNETWORKSは演っているかもしれなかった。
泣いたまま、ヘルメットでバレなきゃいいななんて思いながら
とりあえず入口まで言って受付をした。
スタッフの中にぼくを知っている人がいて、声をかけてくれたが、
うまく話せず、ぎこちなかったと思う。
先の方の駐輪できるスペースで主催者の友達が待ってくれているとのことで、
そちらへ進むと、主催の友達が手を振って歓迎してくれた。
その時も、受け答えをするのが精一杯で、とてもぎこちない態度になってしまった。
友達は、きっとわけがわからなかったと思う。
メインステージへ進んでいくと、NETWORKSはまだ演っていた。
いちばん後ろの方で観ることにした。
機材トラブルかなにかで中断していたようだったが、すぐに再開となった。
始まった曲は、ぼくが好きな、楽しみにしていた“Came-Mu-shi”だった。
この曲には空へ昇っていくような感覚を覚えるパートがあるのだけど、
そこで盛り上がるバンドとオーディエンスを観て、
こみあげてきた気持ちは高揚感ではなくて、
そのせいで目の前の空間に自分がコネクトできないことが苦しくてまた涙があふれてきた。
次の曲でNETWORKSのステージは終わった。
主催の友人と同じくスタッフであるそのお兄さんを見つけていたのでつかまえて、
来たよ、って挨拶をしたのだけどやっぱり普通に話せなくて、
「ほんっとにしょーもないことなんだけど…」と、
状況とそのときの心境を乱暴に説明した。
そして、
今とても楽しめる心境じゃなくて、途中で帰ったらごめん、と伝えた。
やっぱり、困惑させてしまった。
彼は10時間以上仕事していて休憩に入るとこだったらしく、
そんな中、
あそこのコーヒーがおいしいよ。少し落ち着いたらいいよ。12時頃戻ってくるから。
と言ってくれた。
そのお店でハンドドリップのコーヒーを買い、
駐輪したところに戻ってバイクに腰掛けて飲みながら小一時間星を眺めたり、
遠くのステージから聞こえてくる音に耳をすませていた。
落ち着きはしたものの、思い出すとフラッシュバックというか、
やはりこみ上げてきて泣いてしまい。
結局、帰ることにした。
フェスに、2時間近くかけて来て、2曲だけ観て、2時間かけて帰る、って
なんなんだって思ったけど。
もっと待てば、時間が経てば楽しむことができる気分になったのかもしれないけど、
その時の自分は「祭り」の場にはそぐわないなと思った。
みんな、楽しみに来ているから。
みんなが楽しんでる中、悲しい顔で泣いてるやつがいたら、
盛り下がらないまでも、なんだよって気になるだろうし、
どうしたのって気にかけるし、実際お兄さんも気にかけてくれた。
無理やり楽しんでやろうかとも思ったけど、
ほんとうの自分の気持ちを否定したり裏切ることを最近はしたくなかった。
楽しんでる「フリ」をするのは、それは違うと思ったし、
このフェスをつくりあげてる人たちに失礼だと思った。
(あんな顔して、あんな短時間で帰るのもじゅうぶんすぎるほど失礼だけど)
ついさっき通った受付で、
スタッフの方に途中外出かと思われたが、
「…すみません……帰ります!」とだけ言った。
顔見知りのスタッフは、なんでとかどうしたのとか聞かずに
「べじさんありがとうございます!」
「気をつけて!」
とだけ言ってくれた。
スタッフの方たちを困惑させてしまったし、
残念な気持ちにさせてしまって申し訳なかった。
単にぼくがぐちゃぐちゃでどうにもならなかっただけで、
スタッフの方たちは誰も悪くない。
主催者とお兄さんのふたりには後日メッセージを送った。
帰りにもういちどあの子のところに行って手を合わせ、帰路についた。
翌朝、
「この場所に猫の遺体を移してある」ということをしかるべきところに連絡しなくては、
と思い調べたものの、担当が村なのか県なのかわからなかったのだけど、
結果、「道路緊急ダイヤル」というものがあることを知り、
そこにかけて対応をお願いした。
「前」の時は清掃局が来て回収した後、合同で動物の葬儀を執り行ってくれるということだったのでその点を確認したかったのだが今回は、
「実際に対応にあたる自治体によるのでなんともいえない」との回答だった。
ある人に、
「悲しいことがあって、話を聞いてほしいことがある」と伝えた。
詳細については伏せたまま、細切れでほんとうに要点のみを伝えた。
(猫、とも言わなかった。)
シンプルで、とてもわかりやすいアドヴァイスをくれて、
すうっと、気持ちがとても楽になった。
そして、ぼくの命が好きだと言ってくれた。
「命が」。
「命」。
「生き死に」についてぼくはなぜこれほどまでに過敏になるんだろうと改めて考えた。
なぜ「死」に触れまいと、遠ざけようとするのだろうと考えた。
根底には、死ぬ気で「生ききりたい」という切実な願いがあって、
それがまだできていないから、叶えてあげていないから、
自分を裏切っているからなのかもしれないと思った。
その人とメッセージでやりとりしていた時、
「さっきも思い出して泣いたし、まだ泣いてしまう」と言うと、
「思い出したい?今どういう自分でありたい?」と訊かれた。
それにぼくは、
「忘れるんじゃなく覚えていて、でもひきずりたくない
好き好んで思い出したいとは思わないけど、思い出しても平気になりたい
同じことがまた目の前で起きても、我を失わずに、
慈しむことができるようになったらいいのかなと今思った」
と返した。
目の前の大切な存在は、自分の分身であって、
自分と同じくらい大切だけど、
やっぱり「分身」だから、イコールではない。
その交わることのない平行線/断絶はあまりに哀しいけど、
それゆえにもうひとりの自分を愛することができる。
まだよくわからないし、
まだ思い出すと涙が出てくるけど、
他者に「愛を届けることができる」ということ。
そこに光を当てていくことを、今「また」、しているところ。