レクリエ日記(仮)

こどもが大好きで、こどもと遊ぶことを通して彼らの「生きていく強さ」を育てたい『こども王子/こどもの笑顔クリエイター』、 「ベジ」こと浅野暁彦のブログです。

こども同士のケンカを解決する、たったひとつの「地味な」やり方。

ぼくはこどもと遊ぶのももちろん得意だけど、

 

こども同士のケンカを解決するのもめちゃめちゃ得意です。

 

どうやるのかって?

 

まあ、ちょっと考えてみてください。

 

ひとつずつ、ヒントを出していきましょう。

  

まず、

 

 

・決して特別な「テクニック」ではありません。

 

 

やろうと思えば誰にでもできることです。

 

 

次に、

 

 

・ モノは使いません。

 

 

必要ないからです。

たとえ話をするのに使うのは別にかまわないけど。

 

 

『あ、じゃあトークで何か楽しませちゃうとかってこと?』って思いましたか?

 

それはTPOにもよるけど基本的に、

 

・目の前の問題から目を反らせるようなことやごまかすことはしません。

 

 

優しく叱るってこと?って?

 

近くなったけど、根本的に違います。

 

 

・絶対に強要や強制はしません。

 

 

「とは言ったって、仲直りさせようと思ったらケンカは良くないってことを理解させなきゃダメでしょう?」って?

 

 

いいえ。それこそが一番やってはダメなことです。

 

 

よく考えてみてください。

 

よく思い出してみてください。

 

あなたはこどもの時、大人が言ってくる「仲良くしろ」だの

 

ろくに話もきいてもらえず言い渡される「喧嘩両成敗」だの

 

それらに理不尽さを感じたことはありませんか?

 

 

…でしょ?

 

 

 

そして、そもそもぼくはこどもたちが仲直りをすることを目的にはしていません。

仲裁しようと思っていません。

仲直りは、本当の解決の先にある副産物でしかありません。

 

 

「意味がわからない!じゃあ一体どうしたらいいの?」って?

 

 

それは、

感情が昂ぶっているこどもの心に寄り添って、

その子(達)の中にある正しさを認めて、受け取ろうとすることです。

 

 

そのプロセスを経て、

 

ぼくが目指しているのは、その子達の「納得」です。

 

 

「納得」は全てに優先します。それが、どこの誰であろうと。

 

 

 

そして「そこ」にこどもと一緒に行くためには、時間と忍耐力が必要です。

いつまでかかるかわからんけど、しょうがない。

だって機械じゃないんだもん。

 

 

でも、

『いつまでだって、どこまでだってあなたに付き合うぜ』って姿勢は、

ほんとにそのつもりでいないとバレて、拗れる。

 

結局、「冴えた」やり方なんてないんです。たぶんね。

 

 

「問題」を見るのでなく、その子の表情を見つめて。

 

その奥のきもちに。「心」に向き合うこと。

 

 

それがたったひとつの「地味な」、しかし「確かな」やり方だと思っています。

 

 

 

One to One の日に。

虹の学校からのおたより

年が明ける前だったけど、一通の見慣れない切手が貼られた封筒が郵便受けに入ってた。

 

タイの国境付近の街サンクラブリにある、ぼくの大好きな『虹の学校』から年賀Air Mailが届いたのです。

 

 

※無事成功した虹の学校のクラウドファンディングではお世話になりました!
皆さんのご支援とご協力のおかげです!

あらためてありがとうございました!!

recrea.hatenablog.com

 

 

メッセージカードと支援へのお礼と近況報告、学校再建の計画などと一緒に、

 

写真で振り返る2018年の様子と、

 

2019年在籍のこどもたちの写真が同封されていた。

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これは地味にうれしい。

 

ぼくの知らない子もちらほらいるし、

 

笑顔がみんなすてきなのは変わらないんだけど、やっぱり成長してるんだね、

 

顔つきがお兄さんお姉さんになってきてるのが見てとれる。

 

あと、滞在してた時に髪型で覚えてたりしたんだけど、

 

ある日突然女の子たちものきなみ坊主頭になってたり(!)して、

 

兄弟姉妹で似てる子も多いから、ただでさえ人の名前と顔を覚えるのが苦手なベジも、じっくり見て覚えらるから。笑

 

 

あとは、

女の子が描いたであろう絵。

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まったくもう!

参っちゃうよなあ、まーた捨てられないものが増えちゃったよ〜!

(※すごくニコニコしながら)

 

 

こどもからもらったものは、ぼくにとってはなんでも宝物です。

(๑′ᴗ‵๑)

 

じぶんの「もうひとつの」命を輝かせる。

元日に実家に行き、甥っ子姪っ子と遊んだ以降、

 

(たまたま隣り合った/すれ違ったこどもと目配せしあうレベルのふれあいを除いて)

今日、実に18日ぶりにこどもとおもきし遊ぶことができて、

 

ハートが満たされた。

 

生き返った、と感じた。

 

年末年始で恒例の風邪をひき、

治って以降ずっと、脳みそをその処理能力的にパツパツにしながら生きていて。

 

体力は充分にあるものの、活力が体に行き届いていないというか。

ハツラツとしたものが感じられないというか。

 

 

そんな中、以前から小学生と幼稚園生の兄弟のシッターを頼んでくれる人からのSOSが届いた。

そして「9時から22時までなんだけどだいじょうぶですか…?」と。

 

13時間通しは、おそらく泊まりでない場合の最長記録を更新する。

 

前日まで引き続きパツパツであろうということはあらかじめわかっていて、

一瞬、体がもつかなあ?と思った。

 

じぶんを犠牲にして誰かをしあわせにしようと思っても、

長い目でみたらそれがじぶんをしあわせにしないことをぼくは知っている。

 

だから、無理はしないと決めている。

(それがベジーシッターであれ、お父さんバンクであれ。)

 

完全オフにしとけば、頭を休めることはできるし、体力を消耗することもない。

 

 

でも、

ぼくはこどもと遊びたいと思った。

 

二つ返事でオッケーと伝えた。

 

 

そして、今日。

 

 

くだらないことを言いあって、

 

しょーもないことをやりあって、

 

ふざけあって。

 

二人を自転車に乗せて公園に出かけ、

 

思いつくままに駆け出して。

 

じぶんの好きな人たちを笑わせて、

笑わせてもらって。

 

 

 

生き返った。

 

完全に、ザオリクだ。

*1

 

 

 

以前から言ってるけど、

 

シッターで出張して出会う子は、

というか「こども」は。

 

もちろんじぶんの子じゃないんだけど、 

でも、「ぼくのこども」で。

 

ぼくのこどもは、もうひとりの「ぼく」で。

 

それは、ぼくが持っている「もうひとつの命」で。

 

ぼくはぼくの「もうひとつの命」とふれあうことで、

よろこばせて、それが輝きを放つと、じぶんもよろこぶことを知っていて。

 

 

それを確認した。

知ってたけど再確認。

 

 

ちなみに、その輝きが曇ってたら、ていねいに包んで、拭いて、輝かせたい。

 

泣いてんのがダメで、笑ってんのがオッケーってことじゃなくて、

 

でもやっぱり、泣いてるよか笑ってる方が好き。ぼくは。

 

 

100悲しんでる人がいたとして、それはマイナス100だけど

 

プラス100たいせつにしてプラマイゼロに持ってったらそれで終わりじゃなくて、

 

その勢いでその人はじぶんのことをしあわせにしようとできる。

 

(心から)100笑ってる人は輝きがもう有り余っちゃってて、

 

他の誰かのことも輝かせることができちゃうんだけど、

 

それは100プラスにしたげたら100持ってかれる、というような数値の移動ではないんよね。

 

質量保存の法則の「外」の話なんだ。なんか知らんけど。

 

「等価交換」じゃないんよね。

 

 

じぶんではない誰かを、(無理矢理にでなくもうひとりの)じぶんとみなしてたいせつにすることができたら、

 

じぶんだけをたいせつにするよりもずっと、じぶんをしあわせにすることができる。

 

 

ありがたいなあ。これを知ることができて。

 

今、覚えていることができてて。

 

生きててよかったなあ。

 

信じてよかった。

 

死にそうな時って、多分この不可思議な法則のことを忘れてたり、その確からしさについて疑っちゃう。

 

いつも覚えてたいし、忘れても何度でも思い出したい。

 

何度でもここに戻ってきたい。

 

生き返れてよかったなあ。

 

生きててよかったなあ。

 

 

 

*1:ドラクエの、死者を100パーの確率で蘇生させる呪文

それでもこどもはパルプンテを唱え続ける

パルプンテ

 

ゲーム『ドラゴンクエスト』の中の呪文のひとつだ。

 

呪文の効果は…

 

 

「なにが起こるかわからない」

 

 

想像したとおりのことかもしれない。


想像以上のこと、
さらには想像だにしなかったことかもしれないし、

望ましいこととも限らない。

 

わざわざMPを消費したのに、

ダメージを受けたり、「損」することもある。

 

ただ、

 

「なにか」は起こる。

(なにも起こらなくても、「なにも起こらないということ」が起きたということ)

 

「今」と、パルプンテを唱えた次の瞬間と、

そのギャップがおもしろい。

 

こどもがその眼に映るもの全てに、

じぶんの好奇心と体力を使っていろんなことをやってみるのは、

そういうことなんじゃないかなあ。

 

常に実験&冒険してる。

 

ちなみにぼくは小さな頃、

自宅のベランダに「水を入れたコップを出しっぱなしにする」という実験をしたことがある。

 

毎日観察して、

数日後、明らかに状態に変化が見られた。

コップに手を入れてみると、水が「ぬるっ」と、ぬめっていた。

 

 

「水が!!!なんか変わった!!!」

 

 

うん。

水が腐ったってだけなんだけどね。笑

 

でもその時、

 

 

 

「じぶんはとんでもない世紀の大発見をしたかもしれない!!!」

 

 

と思って、とても興奮したのを覚えている。

 

 

じぶんの想像だにしないことが起きる。

 

それは、「行動する理由」になると思う。

 

だって…

この先に起こることが全部わかってたら、死ぬほどつまんなくない?

 

たぶん痛い目にも遭うし、つらいこと、悲しいこともあるだろう。

 

でも、

それらすべてをひっくるめて「失敗じゃなく、経験だ」と捉えるスタンスが、

人生というロールプレイングゲームを楽しむための秘訣だと思っている。

 

 

それを知らずに、無意識でやり続けるこどもたちは、

チャレンジャーであり、勇者だ、とも。

 

 

やっぱりこどもはぼくにとっての人間として生きる上での先生だなあと思う。

旅を終わりにする勇気。

何者かになるためにじぶんに何かを足していく作業は、

 

きぶんは変わるかもしれないが、本質的な意味でじぶんを変えはしない。

 

それは服を着ているようなもの。表面的なもの。

 

「着飾ったじぶん」に、(つまり条件付きで)価値を見出すのなら、

 

その服に穴が空いてしまった時、流行に合わなくなったとき、

 

きっとあわてたり、不安になったり、困ることになるだろう。

 

(おしゃれが好きで服に命をかけてる人なんかは別ね。

 

「服を着たじぶん」に価値を見出すんじゃなく

 

多分「服を着るじぶん」が好きなんだと思う。そこに迷いはないんだと思う。)

 

 

 

じぶんが何者か(何がしあわせか、何をしてよろこぶか)をわかっていて

 

じぶんに何かを足していく作業は、その全てが経験値になり、自らの血肉になる。

 

そこに無駄はない。

 

もちろん無駄がいけない、という意味じゃない。

 

早いうちにじぶんのことをわかっておくことができれば、

 

もろもろのロスがなくて、長い目で見ればお得だってこと。

 

 

「がんばり続ければ、いつか本当のじぶんを見つけられる」というような発想が、

 

そもそも「今ここにいるじぶんを否定している」ということにきづけるか。

 

『あれ?もしかしてこの道には終わりがない?』って残酷な事実を受け止めらるか。

 

ある種の諦めと、覚悟が必要だと思う。

 

それは旅を終わりにする勇気とも言える。

 

ずっと目指していた目的地が、ずっと「今立っている足元」だったと知ること。

 

そしてそれを認めること。

 

 

 

それが本当にわかったとき、

 

そこから眺める景色は、

 

見慣れてたはずの、ただの平々凡々な日々に埋もれた景色は、

 

きっとわるくないはずだ。

ヒーローを目指すなら、英雄になろうとしてはいけない。

今日は、ぼくが考えるヒーローと英雄の違いについて。

 

英雄はヒーローって訳せるけど、

でもぼくん中ではイコールじゃないんよね。

 

英雄って、なんつーか銅像になるような感じ。

一度でも何かの頂点を極めた人がなる感じ。

皆が、崇め奉る感じ。

 

ヒーローは、そういうピークがあるんじゃなくて、

みんなといっしょにいて、

何だろう…続いていく感じ。

アンパンマンってまさにそれじゃない?)

 

んで、

ほんもののヒーローって、

だれかのピンチを救ってそれで終わりじゃないきがする。

そこで途切れないきがする。

 

想い…「どう世界を見るか」、そのまなざしが受け継がれていくきがする。

救われた人が、今度はだれかを救いにいくきがする。

 

ありがとう!って思って、

うれしくて、

憧れて、

突き動かされるものがあるきがする。

『ぼくも/わたしもああなりたい、追いつきたい』って思うきがする。

 

 

ああ、うん、

やっぱりぼくは、

「じぶんの命をかけてだれかを助ける人」のことをかっこいいと思ってるんだなあ。

 

消防士さんとか。

曽田正人さんの漫画でいうと、一番はダントツで『め組の大吾』なんよね。

(※異論は認めます)

 

そう、

小学校低学年の時、学校の近くに消防署があったんだけど。

 

なんでだったかなあ、ある日突然思い立って、

ひとりでアポなしで取材?に行ったんだよなあ。

「消防士さんのお仕事のことをおしえてください」って。

 

一人の消防士さんが、椅子に案内してくれた。

署内の自販機で缶ジュース(確かキリンメッツだった)を買ってくれた。

 

細かくは忘れちゃったけど、

「消防士さんをやるのにだいじなことは何ですか」

「きをつけていることは何ですか」

「いつも訓練しているんですか」

とか、そんなことを訊いたと思う。

 

その消防士さんは、そのひとつひとつに丁寧に答えてくれた。

そして消防署を出た後も、ドキドキしていた。

かっこいいなと思った。

そこで消防士になりたい、とはならなかったんだけど、

ぼくの目をまっすぐに見つめて、真剣に話してくれたことが何だかとても、誇らしかった。

ぼくのことを少しも「こども扱い」なんてしなかった。

だからかな。

 

当時はそんな風に分析なんてできてはいなかったけど、

『ああいうかっこいい大人になりたい』と思ったなあ。

 

 

『ぼくもなれるかな…?』を通り越して、

『ぼくも/わたしもああいう(在り方の)人になりたい!』

って思わせてくれるのがヒーローだな、ぼくの中では。

 

 

うーん、

何だか、じぶんでハードルをあげてしまったぞ。

でも、こどもに関してだったら、

他の誰でもないぼくが

 

『そこまでたどり着きたい、死ぬまでそういう在り方でいたい』

 

って思ってるから、何の問題もないのだ。

 

 

(ヒーローを目指す)人生は続く。

 

「いい子にしてなさい」って何?

こどもに対して、

 

「いい子にしてなさい!」

「いい子にしてたら〇〇してあげる」とかって、

 

あれ、何なんだろう。

 

 

「いい子」とは。

 

「これこれこうだ!」って答えられる人って、いる?

 

答えにつまる人って多いんじゃないだろうか。

 

「(お行儀の)いい子」

 

「(ききわけの)いい子」

 

とか、そんなあたりかな。

でも、その時々で大人の都合のいいようにニュアンス変えてることない?

 

それってこどもを「御する」前提があるんだよね。

大人の意図した通りにするのが「いい子」。 

 

たださあ、言葉が通じるからって、

意図がそのまま通じるとは限らない。

 

語彙が少なければ、

それに付随する概念をまだ獲得していなくてもあたりまえだ。

「いい子」だなんて、わかんないよ。

(「いいかげんにして!」なんかもそうかな。)

 

わかんないから、

大人がしてほしくないことをそのままし続けたり(だってやめる理由がない)、

戸惑ったり、どうしようもなくなって泣いたり。

 

なんか知らんけど、どうやら怒られてるらしいというのはわかるから、

押し黙ったり。

 

それはこどもを「大人しくさせたかった(←ずっと前から思ってるけど変な話だよね)」大人の一時的な「勝利」ではあるけど、

しつけが成功したように見えるけど、実は何の解決にもなっとらん。

 

 

そして、 

それ、こどもからしたら、時にとてもおそろしい「呪文」になるんだ。

 

 

「いい子にしてなさい!」

 

 

『それを言われるってことは、ぼく/わたしは今「いい子じゃない」。

いい子じゃないってことは、悪い子なのかなあ…。』

 

って思っちゃう子いると思うんだよなあ。

(ぼくがそのタイプだった)

 「そっち」の方を真に受けちゃうの。

 

 

イライラするのはしょうがない。

人間だもの。

でも、そのせいで相手をどうにかしたいと思ったら、

 

「あなたは◯◯だ、あなたが〜〜したせいで私が嫌な思いをしている」といったジャッジメントでなく、

 

 

自分を主語にして、

 

「『私は』これこれこう思っているから、あなたに◯◯してほしい、◯◯してもらえる?」

 

って言ってみてほしい。

 

相手が大人ならもちろん。

こどもなら、なおのこと。

 

ベジさんからの、お願いです。

 

 

決して見下すんじゃなく、

かと言って見上げるんじゃなく、

同じ目線の高さで、じぶんと対等な人同士の対話であるとイメージして

じぶんの希望や要望を伝えてみてほしいんだよなあ。

 

 

拍子抜けするほどスッ、て伝わるのを実際に経験してもらったら、

「ああ〜。」って、わかってもらえるんじゃないかなと思ってます。

(๑′ᴗ‵๑)