レクリエ日記(仮)

こどもが大好きで、いっしょに遊び楽しむことを通してこどもの「生きていく強さ」を育てたい『こども王子/こどもの笑顔クリエイター』、 「ベジ」こと浅野暁彦のブログです。(できる時に、更新。)

ひょっとして世の中には「困ったちゃん」よりも、「困ってる人」のが多いんじゃないだろうか

電車などに乗っている際に、率先して必要な人に席を譲るようにしているのだけど、

 

最近は特にその機会が多い。

 

電車に乗る日は、ほぼ毎回。

 

そして、駅構内の路線図や券売機前で「??」となっている外国人にもよく遭遇する。

 

その度に話しかける。

 

決して英語に自信があるわけじゃない。

 

むしろ、ない。

 

話しかける時だってなんだかドキドキする。

 

「メイアイヘルプユー?」の発音なんてほぼこのまんまのカタカナ発音だ。

 

でも、「お手伝いしましょうか?」という意図は完全に伝わる。

 

日本を好きになってもらうためにとかじゃない。

 

(オリンピックとか、ぼくはどうでもいい。)

 

もっというと、相手のためではあるけれど、それが全てではない。

 

あくまでも自分のためにやってる。

 

助けたいから助けてる。

 

善行、というと大げさだけど、

 

困っている誰かを助けたらその相手とじぶんと、

 

少なくとも二人ぶん良い氣分になるから、時間が許せばやらない手はないと思っている。

 

あとね、

 

これ、意識の問題なんだけど。

 

『世の中には「困ったやつ」(←「困ったちゃん」の意)がたくさんいる』って考えてるのと、

 

『世の中には「困ってる人」がたくさんいる』って考えてるのでは、

 

その字面はほとんどいっしょでも、まるで違うな、と。

  

 

 

前者は、

 

じぶんの平穏を守ろうとして相手を避けるからその場面においてハッピーにできるのはじぶん一人だけ。

 

そして、じぶんが面倒ごとを避けるってことは、

 

「じぶんが困った時に、面倒ごとだからと周囲から避けられる」っていう呪いを無意識でじぶんにかけてるのと同じじゃないかと思うんだよね。

 

後者は、

 

前述の通り、少なくとも二人ぶんハッピーにできるし、

 

「手を差し伸べるべき相手がいる」って思ってると、「困った時には助けてもらえる」っておまじないを無意識でじぶんにかけてるのと同じなんじゃないか、と。

 

と書いててきづいたけど、

 

(たくさん助けてもらってきた、その体験を覚えてるからってのももちろんあるけど、)

 

ぼく、「本当に困った時には絶対に誰かから助けてもらえる」って思ってるわ。

 

だからこそ、

 

どう考えても金銭的には完全に赤字でしかない報酬不要のベジーシッターなんて活動を何年もやれてるっての、あるなあ。

 

『情けは人のためならず』って、ほんとそうなんだと思う。

 

この感覚はずっと忘れずにいたい。