接点がないものについて、思考を巡らすことは困難だ。
接点がないものは、関係がないものだから、
思考を巡らすどころか、そもそも想像することができない。
(正確に言うと、発想の候補として極端に上がりにくい、ということ。)
Aという便利なものがあるとする。
この世に完全なものなんてないから、
さらに改良/改善する余地は残されているはずなのだけど、たいていの人はどうしていいかわからない。
というか、改善したいとすら思わない。
何も考えず、既存のものを受け入れ、受け取る(利用する)だけ。
「もっと良くするには?」という問いを持った者が作った、
Bという「結果」が形になって世に出て初めて、
「こんな便利なものが何故今までなかったんだ?」と口にする。
人類は、有史以前から馬に乗ってきたらしいけど、
歴史への登場が西暦300年頃(※諸説あり)とされている鐙(あぶみ)が考案されるまで、
人が馬上で不自由な体勢を制御することにしか意識を向けていなかった。
紀元前の古代ローマ時代が舞台の漫画『ヒストリエ』では主人公のエウメネスが考案する描写があるが、
いずれにしても長きに渡って不便な状態を甘んじて受け入れてきた。
それが「当たり前」だから。
これから先は、いや、ずいぶんと前から。
「当たり前」を疑うこと/疑えることは、生きていく上でとても重要な能力なのだと思う。
環境は常に移り変わっていくが、
人間に限らず、自らを変化させないことを選択した者から滅んでいくのは歴史が証明している。
人間がそれまでの種と決定的に違うのは、自らを「進化」させなくとも生き残れる「社会」を作り上げたことだ。
しかし、
今ある社会が全てであり正しいと盲信し、
社会に合わせることしか考えず、
それゆえ社会に合わせることしか考えられないようにこどもたちに教え育てようとすることは、
とても危険で、そして残酷なことではないかとぼくは思います。
(親がそう教育されてきたから、想像できないのはしょうがないっちゃしょうがないんだけれども。)
別に、革命を起こすことを煽りたいわけじゃないし、
反社会的な暴力行為を勧めたいわけでもありません。
が、
皮肉なことに「今の社会そのものが暴力的である」ということに自覚的でいられるかどうか、
それでなくとも『(じぶんを取り巻く)このシステム、私たちに全然やさしくないんじゃないかな?』って疑問を持ち、
それを「どうやったら変えていけるだろう?」と問いを立てることができるかどうかは、
大げさでなく、ぼくらの命に関わる問題だと思います。
「関係ないこと」なんてどこにもなくて、「全ては関係がある」ということが【真】で。
関係がないように見えても「全てが結びつきうる、その可能性がある」ということは、
誰も否定できないし、皆が覚えておかなくてはいけないと思います。
P.S.
余談ですが、7月10日はニコラ・テスラの誕生日ですね。