4月30日が終わり、元号が令和になった後、
食べもので「〜〜の儀」的なことをしてみよう、とふと思った。
(夜ごはん食べてなかったってのもあるんだけど)
(こないだも書いたな)ぼくは特定の宗教を信じていないけど、
「新しい時代」に最初に口にするものはちゃんと選んで、
改めていつにも増して感謝していただこう、と。
『最初は…「水」だなあ』と思って
時計の針が0時を回ってから白湯をコク、コクとゆっくり飲んだ。
そして
白米を一合だけ炊き、
茶碗にほんのひと口ふた口分だけよそい、
いつもより長く息を吐いていただきますをして、
よく噛んで飲みこんだ。
いつもと変わらないお米と炊き方なんだけど…
なぜか、味が全然違った!
ありがたみを感じて食べたからなのかなあ。
しあわせが深いというか。
それによって、
『ほんとうに感謝しながら暮らすと幸福感が上がるのではないだろうか?』という仮説が浮かび上がる。
ぼく「ありがとう」って、わりと積極的に言ってる方だと思うんですね。
や、感謝はしている、しているけれども!
でも繰り返してるうちに礼儀やマナー、習慣としての言葉になってしまい、
きもちがこもってないまではいかなくとも、
きもちが満タンになっていないことって結構あるきがする。
感謝しなきゃ!って(それでするのは個人的にはニセモノだと思う)のでなく、
『うわあ、ありがたいなあ』って「感じられる」ようになると違うのかなあ、って。
つまり
意思によってでなく、ただ「在る」ことを「感じる」ことによって成り立つものが
「ほんとうの感謝」なのかなあ、と思った。