歳を重ねるにつれ、
わかってきたこと。
ほんとうは、いろんなことが
頭の中で考えている「それ」と正反対なことがあるということ。
その確信が、どんどん深まっていく。
かつて
真実だと思っていたものは、嘘に、
嘘だと思っていたものが、真実に、
変わった。
詐欺師が皆詐欺師然としていたら、騙される人はいないよね。
「嘘」は、さも自分が「真実」であるかのような顔をしてあなたを欺いている。
『騙されているかもしれない』という疑念どころか、
『人は騙される/欺かれることがある』ということにすら意識を及ばせないのが「彼ら」の恐ろしいところだ。
だから騙されないために全てを疑うべきだ、ということではなく、
自分を善くするために、あり得る可能性について「できるかぎり」考えよう、ということ。
誰かから教えられた既存の「ほんとう」を盲目的に信じるのでなく、
自分が、自分だけの「ほんとう」をつくっていけばいいし、つくっていいんだということ。
それは、誰にも許されている。
ぼくらは、目を覚ましている間、
常に目の前のことに反応している。選んでいる。
人生は、選択の連続だ。
人生は、絶え間なく連続した問題集だ。
揃って複雑、選択肢は酷薄。
加えて、制限時間まである。
だから、
いちいち立ち止まらなくても選べるように、
知っていることにして、
わかっていることにして、
「自分は正しい」ということにして、
考えることをやめている。
目を、つむっている。
そこに「思考」があることを言い訳にして、
今自分の前にあるほんとうの光景を、世界を。
目を開いて見ようとしない、
受け取って、返そうとしないことを正当化している。
人は皆、思い込みの中で生きている。
『たぶん〜〜だろう』
『きっと〜〜のはず』
『絶対〜〜にちがいない』
そんな狭っ苦しくて、ちっぽけなもんじゃあないよ、
あなたが生きているこの世界は。
人が空想できる全ての出来事は、起こりうる現実だ。
「ありえない」なんてことはありえない。
だから、
期待してもいい。
期待をすると、もちろん裏切られることもある。
だから、強く「望む」ことだ。
この世に魔法があるのかは正直わからない(あってほしいとは思う)。
でも「奇跡」なら、自分の手で起こすことはできる。
自分が思うやさしいことがもらえないからって、
拗ねて、その人を否定したところで、得るものはなにもない。
というか、
得られないどころか、自分が気がついていないだけで、
実はもう、もらっているのかもしれないよ。
気づこうよ。
それでも見当たらない、わからないってんなら、ね。
「やさしさ」なんていう曖昧でつかみどころのないものが、
それでも本当に「有る」んだって証明できるのは、あなた自身なんだ。
だから、ひとにやさしくされたかったら、あなたがやさしくなってごらん。
誰にとは、言わない。
誰かへのメッセージ。