前回
からの続き
今回「こどもといちにち遊ぶサーヴィス」をやってみて、
あらためて確認できたことをいくつか記してみます。
こどもは前しか見てない
バスケの練習をするにも、フリスビーで遊んでる時も、移動するにしても…
要はいつ何時でも。
前しか向いてない。後ろを振り返ったりはしない。
集中しているんです。
おかげであぶなっかしい場面もいっぱいあったんですが、
それは大人がフォローしてあげればいいことだと思います。
あ、そうそう、身内とかは関係なく。
たとえば、
ぼくの横で滝の岩場をよじ登ろうとしているどこぞの小さな子がいたんですが、
うっかり足を滑らせても受け止められるように後ろで手を構えておいたり。
(あくまでも本人に気づかれないようにするのがポイント)
ぼくはこどもたちに思う存分、チャレンジをさせてあげたいし、目の前のことに集中させてあげたいと思います。
こどもは楽しめないことはしない
少し言葉を換えると、
「楽しそうなことがあったら全力で飛び込むし、なかったら自分で作って遊ぶ」
ってことです。
たぶんぼくがフリスビー持ってかなくても、
バスケットゴールがなくても、滝や水路がなくても、
ていうかそもそも公園なんかじゃなくても。
きっとかれらはその時その場にある状況でできる遊びを新たにクリエイトして、
いちにち楽しみきったはず。
ほんとうに、こどもは遊びの天才だと思います。
ここんとこ、ぼくを含む全ての大人が見習ったらいいと思います。
こどもは発想に限界を設けない
ままごとでカレーを作っているときに、
最初は「にんじん、じゃがいも、お肉もたっぷり」といたって普通の具材だったのですが、
そのうち奇抜な具材がどんどん出てきて、最後には食材ですらないものも飛び出したり!笑
彼らの中には、
料理は「こうあるべき」「こうでなければならない」という制約や限界という概念がないから、
自由
ですよね。
おかげでいっぱい笑わせてもらいました!
ああ、これ今思ったけどこれこそ「カオスキッチン」だなあ笑
(´-`).。oO(ああ〜、このときの動画見せたいなあ〜!笑
こどもは自分を「箱」に閉じ込めない
自分が周りにどう見られているかなんて気にしていない。
あるがままの自分を、オープンにしてさらけ出している。
たぶん、肩書きとか建前とかそういうの、
自分を表す記号=レッテルを貼る必要がないからなんでしょうね。
「自分自身」をそのままに「生きて」いる。
「それ」は本来、誰かに許される必要なんてない。
(誰かを傷つけるなら話はまた変わってきますが。)
「それ」を、「わがまま」や「悪いこと」と捉えレッテルを貼るのは周囲です。
たとえば「人様に迷惑をかけない立派なオトナ」って書かれた「箱」に押し込めようとするのは。
極端な言い方かもしれませんが、
「人様に迷惑をかけない立派な大人」が必ずしも「やさしい人」であるとは限りません。
でも、
「やさしい人」に育ったら、「人様に迷惑をかけない立派な大人」になっている気がします。
ぼくは、やさしい気持ちを、やさしい人をつくるのは、
「北風」よりも「太陽」だと信じています。
(これはまた別の機会に。)
たたかい済んで、日が暮れて。
帰りの電車の中で何の気なしに周りを見回してみた時、
口を「へ」の字に結んだ大人しかいないことに気づいて、
なんだか違う国に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えました。
『みんなお仕事で疲れているんだ、しょうがないよな』という理屈は頭の中にあるんだけど、
なんかしっくりこなくて。
人に「楽しむこと」を強要したくはないし、もちろんぼく自身もされたくはないけど、
ふつうに生きてて、目の前のことを楽しんでいたら、 楽しみなことが待ってたら。
夕方の電車もアルカイックスマイルよろしくすてきなほほえみであふれかえるのかなあ、なんて思いました。
初陣後、うれしい追い討ち
帰宅後、Wさんにお礼のメッセージを送ったところ、返信をいただきました。
Wさんによると、
こどもたちが
「ねえ?また遊べる?」「いつ遊べる?」
と聞いてくるんだとか。
…あのね。
こどもを楽しませることに関しては、
いままでの実績があって、それに裏打ちされた自信があるんですよ。
でもね、やっぱり
すごく
うれしいし、
まじで
ありがたい です。
まじで。
「こどもといちにち遊ぶサーヴィス」。
やっぱりやってよかったと思いました。
そしてやっぱりいつまで、と期限は決めないことにします。
飽きるまで、やろうと思います。
PLAY FAST!