ぼくが「この世で最も重要な人のうちの一人」に対してじぶんの心のシャッターを完全に下ろしたのは、
その人のあらん限りの怒りを乗せた、たった3語の短い言葉によってだった。
その言葉には、いっしょにやさしさはかけらも乗っていなかった。
『たとえどんな関係であれ、人の尊厳を踏みにじる言葉を無遠慮に叩きつけることのできる人間に対して自らすすんで心を通わせる価値を見出すことはできない』、瞬時にそう思った。
(どうやらその裏には如何ともしがたい悲しみが隠れていたらしい、と知るのはそれからずいぶん後の話だ。)
言葉があるせいで、定義や解釈が生まれ、そして誤解が生まれる。
言葉にした時点で「それ」は対象の本質とイコールではなくなる。
より正しく形容しようと言葉を尽くせば尽くすほど、
伝えたいことから遠ざかっていくように感じられて、
まるで正しく伝えられないことに愕然とし、絶望する。
だったらいっそのこともう口を開くことをやめようか等とばかげたことを本気で考えるも、
そのままで生きることを、たいていの場合周囲の人間たちは許してはくれない。
膨張し続け掴みどころのない苦しさだけが確かに感じられる。
そんな、底にいる人を掬い上げてくれるのは、
理由を必要としない優しい眼差しであったり、
ただの手のぬくもりだったり、
重なった胸の鼓動だったりするのだけど、
その時の感情はまったくもって形容しがたいものであるのにも関わらず、
それでも形容したいと思ってしまうのだ。
「このきもちを味わうために生まれてきたのか」と思えるような
そのよろこび、そのすばらしさをじぶんではない誰かと共有するために。
それはひとつところ(じぶんの中だけ)には止めておけないものだ。
言葉を持たない動物は、生を喜び全身で踊る。
からだを道具にして。
人間が作った言葉は、道具。
不完全で拙い、ツール。
言ってしまえば、それ以上でもそれ以下でもない。
でも、だからこそ、
使う者の意識(使い方)次第で、その意味も力も大きく変わる。
言葉にいいように振り回されながらも
なんかわかんないかなぁって、
もう少ししがみついていたい、この手を離したくないと思って生きている。
P.S.
不可思議/wonderboyの『もしもこの世に言葉がなければ』という曲、ぜひ聴いてほしいです。
追記:YouTubeに落っこってました
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