「こどもを信じようとする」こと。
すてきなことだと思う。
ただし、注意が必要。
なぜならそのやり方次第では、関わる人全員がアンハッピーになりかねないから。
結論から言うと、
信じるなら
その子の「行動」でなく、「存在そのもの」を信じること。
例えば、
こどもが「何かを成し遂げること」(=行動)を信じると、
それが実現しなかったとき、
親御さんが『わたしの信じ方が足りなかったのかな…』なんてじぶんを責めたり(そんな必要はない)、
場合によっては『信じてたのに裏切られた…』なんて感じてしまう。
(人間て勝手だよねえ(´・ω・`))
そう、
こどもの「行動」(やその結果)を信じてるのは、
それはこどものことを信じてるふりをして、
親が勝手に「期待してる」だけなのよね。
ここに自覚がない人めちゃ多いけど。
(まあ当事者になると見えなくなっちゃうものなんだけどさ)
ほんとうに信じるって、
じぶんが信じてるその人がどうなろうと(どうしようと)問題じゃないんだ。
その人は無限の可能性を持ってる、というか「可能性そのもの」だってことを疑いなく捉えてたら、
その人が失敗しようが成功しようが、関係ない。
その人が生きて「ただ確かに在る」ってだけで、その他に条件というものが必要ない。
だってほんとはそれだけでもう、すばらしいことだから。必要充分なんよね。
それをただ、
認めて、見守るってこと。
あ、期待すること自体はオッケーよ?
結果を「人のせい」にさえしなければ、ね。
『あなたは必ずできる』とか『きっとやり遂げられる』とか、【強く想う】のは、オッケー。
言い換えると【願う】とか【祈る】、ってこと。
「わたし」(という媒体)を使って、「あなたのしあわせ」を実現したい(実現したらいいなあ)と強く想うこと。
それはその人をとても強くするから。
その人が「じぶんがなんだってできる可能性を持った存在だ」ってことを思い出して
その心強さとずっと共に在ることは、
「その人のしあわせ」が実現する可能性を飛躍的に高めます。
ぼくは
「あなた」という存在にはなんの問題もないってことを思い出して、確認してもらいたいから、
その想いを
『あなたは、だいじょうぶ。』
ということばに込めて使っています。
それについて詳しくは、こちらの記事を。
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もう一度。
信じるなら
その子の「行動」でなく、「存在そのもの」を信じること。
P.S.
こどもの信じ方について、ぜひこちらもあわせて読んでみてください!
(๑ÒㅅÓ)ノ
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