「望み」の話。
思いがけず、望みが叶ってしまうということはままあると思う。
漁夫の利、棚ぼた、勿怪の幸い。
そういったもの。
それはそれでLuckyってことでいいんだけど、
より強い望み、 「願い」とも呼べるものは、「正しく」願わないと「正しく」叶わないきがしている。
ちなみに、たとえ方法を知らなくてもその願い方が「正しい」レンジの中に収まっていれば、結果として叶うはず。
そういうふうに、「なっている」。
これは、実体験から導き出した仮説。
そう、
今日は、望みは望みでも、
「希望」と「願望」の違いについて書きたいと思ったんだ。
「〜だったらいいなあ」と「〜でありますように」 の違い。
それともまた違う表現…んーと、
『信じるものは救われる』
ってのがある。
あれって確かにそうなんだけど、
より正しくは、『信じるものは辿り着く』だと思う。
もっと言うと、『信じるものは帰り着く』とでも表現できるっぽいんだけど、
それは体感してないからなんとも言えないんよね。
ていうか3次元の中で生きている限り、そもそも知覚はできないかもだけど。(´・ω・`)
有名なところで言うと、
「引き寄せの法則」だったり、『思考は現実化する』、かな。
ある「願い」があって、それを信じてる度合いが100パーセントだと、「叶う」。
というか、「叶う」ことしか起こらない。(…はず。仮説だからね。)
じゃあ100パーセントでないと、もし99パーセントだったら叶わないか?といったらそんなことはなくて、
まさに「可能性」、その「確からしさ」がその分だけ目減りするってことだと思う。
てことは、100パーセントの状態で在り続けることが理想なのは言うまでもないけど、
とはいえ人間は不完全だから、きもちの波があって、「ゆれる」。
容れ物であるからだの状態にも左右される(互いに繋がっていて、影響しあっている)。
たぶん、「願い」を現実のものにするために大切なのは、
できるだけ速やかに「そこ=100パーセント」のところまで戻ってこれるようにすることだ。
「そこ」にいる瞬間を増やすこと、そして、それを「自分自身の意思によって」コントロールすること。
それだけなんだと思う。
(そうできるようにするのにはトレーニングが必要だとは思うけどね。)
「強く願う」=「覚悟を決める」と言い換えてもいい。
だとしたら、覚悟を決めなくても叶えられることなんて、たかがしれてるのかもしれない。
より広い意味では、「強く想う」ってことかなあ。
好きな人を見るとき、
あなたは可能性の塊だぜ、って思う。
(おんなじことをあの人は「Baby、きづいてるかい?お前はスターだぜ?」って言った。)
おれ、超信じてる。
その時たまたま弱ってて、その光が消えそうになってたとしてもだ。
だから自分のことを虐げてたり、侮ってる人を見ると、ざけんなって思う。
だから胸ぐら掴んで、「てめえは、そんなもんじゃねえだろう!」って言いたくなる。
それを、人から胸ぐら掴んで言ってもらえるのを期待してたんだと思う。
「でもできるだけ優しくしてよね」なんてことを同時に望むというゼータクな注文を人にしていたんだと思う。
長いことLuckyを待ってた。
でも、もう「きづいちゃった」から、そろそろ自分で自分に言わなきゃだめなんだと思う。
(それはこの先、人の力を借りてはいけないってことでは決してない。)
「憧れる」ってことは、それに手を伸ばしているようでいて、自らをその一番遠くへと遠ざけてしまう行為なのかもしれない。
「辿り着く」ために、一歩を踏み出すことはできてきた。
そしたらその次は、歩きながら「どうしたら歩き続けられるか」だけを考えればいいはずだ。
途中で立ち止まっても、いい。
今の俺が未来のお前に許可を出す。
あきらめてかまわない。何度でも。
だいじなことはそんなんじゃない。
どこへ向かっていいかわからずに、もう何回も「死んで」きた。
それでも、どうにかこうにかここまでやってきたんじゃないか。
憧れるのはもうやめにしよう。
「目的地」は決まったんだから、「辿り着く」という覚悟を決めよう。
今よかちったあ楽になんだろ!(๑ÒㅅÓ)ノ