レクリエ日記(仮)

こどもが大好きで、こどもと遊ぶことを通して彼らの「生きていく強さ」を育てたい『こども王子/こどもの笑顔クリエイター』、 「ベジ」こと浅野暁彦のブログです。

憧れだけじゃ本当は何も見えないなって思うから

「望み」の話。

 

思いがけず、望みが叶ってしまうということはままあると思う。

 

漁夫の利、棚ぼた、勿怪の幸い。

そういったもの。

 

それはそれでLuckyってことでいいんだけど、

より強い望み、 「願い」とも呼べるものは、「正しく」願わないと「正しく」叶わないきがしている。

 

ちなみに、たとえ方法を知らなくてもその願い方が「正しい」レンジの中に収まっていれば、結果として叶うはず。

そういうふうに、「なっている」。

これは、実体験から導き出した仮説。
 

そう、

今日は、望みは望みでも、

「希望」と「願望」の違いについて書きたいと思ったんだ。

「〜だったらいいなあ」と「〜でありますように」 の違い。

 

それともまた違う表現…んーと、

 

『信じるものは救われる』

 

ってのがある。

 

あれって確かにそうなんだけど、

より正しくは、『信じるものは辿り着く』だと思う。

 

もっと言うと、『信じるものは帰り着く』とでも表現できるっぽいんだけど、

それは体感してないからなんとも言えないんよね。

ていうか3次元の中で生きている限り、そもそも知覚はできないかもだけど。(´・ω・`)

 

有名なところで言うと、

引き寄せの法則」だったり、『思考は現実化する』、かな。

 

ある「願い」があって、それを信じてる度合いが100パーセントだと、「叶う」。

というか、「叶う」ことしか起こらない。(…はず。仮説だからね。)

じゃあ100パーセントでないと、もし99パーセントだったら叶わないか?といったらそんなことはなくて、

まさに「可能性」、その「確からしさ」がその分だけ目減りするってことだと思う。

 

てことは、100パーセントの状態で在り続けることが理想なのは言うまでもないけど、

とはいえ人間は不完全だから、きもちの波があって、「ゆれる」。

容れ物であるからだの状態にも左右される(互いに繋がっていて、影響しあっている)。

 

たぶん、「願い」を現実のものにするために大切なのは、

できるだけ速やかに「そこ=100パーセント」のところまで戻ってこれるようにすることだ。

「そこ」にいる瞬間を増やすこと、そして、それを「自分自身の意思によって」コントロールすること。 

それだけなんだと思う。

 (そうできるようにするのにはトレーニングが必要だとは思うけどね。)

 

「強く願う」=「覚悟を決める」と言い換えてもいい。

だとしたら、覚悟を決めなくても叶えられることなんて、たかがしれてるのかもしれない。

 

より広い意味では、「強く想う」ってことかなあ。

 

好きな人を見るとき、

あなたは可能性の塊だぜ、って思う。

(おんなじことをあの人は「Baby、きづいてるかい?お前はスターだぜ?」って言った。)

おれ、超信じてる。

その時たまたま弱ってて、その光が消えそうになってたとしてもだ。

 だから自分のことを虐げてたり、侮ってる人を見ると、ざけんなって思う。

だから胸ぐら掴んで、「てめえは、そんなもんじゃねえだろう!」って言いたくなる。

 

それを、人から胸ぐら掴んで言ってもらえるのを期待してたんだと思う。

「でもできるだけ優しくしてよね」なんてことを同時に望むというゼータクな注文を人にしていたんだと思う。

長いことLuckyを待ってた。

でも、もう「きづいちゃった」から、そろそろ自分で自分に言わなきゃだめなんだと思う。

(それはこの先、人の力を借りてはいけないってことでは決してない。)

 

「憧れる」ってことは、それに手を伸ばしているようでいて、自らをその一番遠くへと遠ざけてしまう行為なのかもしれない。

 

「辿り着く」ために、一歩を踏み出すことはできてきた。

そしたらその次は、歩きながら「どうしたら歩き続けられるか」だけを考えればいいはずだ。

 

途中で立ち止まっても、いい。

今の俺が未来のお前に許可を出す。

あきらめてかまわない。何度でも。

だいじなことはそんなんじゃない。

 

どこへ向かっていいかわからずに、もう何回も「死んで」きた。

それでも、どうにかこうにかここまでやってきたんじゃないか。

 

憧れるのはもうやめにしよう。

「目的地」は決まったんだから、「辿り着く」という覚悟を決めよう。

 

 今よかちったあ楽になんだろ!(๑ÒㅅÓ)ノ