暗く深いトンネルを、抜けた。
ぼくは矛盾と、誤解されることが嫌いだ。
どうやったって完璧はないし、誤解を全くなくすこともきっとできないと思う。
ぼくはいつもくだらないことばかり言っているけれども、
自分が大事にしていることについては嘘がつけないから、
誤解をされたと感じたら、できる限り速やかにそれを解こうとしてきた。
それなのに、
この2ヶ月間、誤解されるのを覚悟で…と言えば聞こえはいいのだけど(『誤解されても構わない』というのではなく)、
自分が誤解されている事実から目を背けて「ひたすら耐える」という選択をしてしまった。
それでも守りたい大切なもの/場所だったからなのだけど、
あろうことか自分を差し置いて他人を守ろうとしてしまった。
それが、いけなかった。
自分を、自分の気持ちを延々と殺し続けてしまっていた。
そして、それによって
守りたい大切な場所にいる大切な人たちをも苦しくさせてしまっていた。
誰よりも矛盾と誤解を嫌う自分が、人にそれを押し付けている。
その認めたくない事実にまた押しつぶされていた。
そんな状況を、やむを得ない事情があったとはいえそのままに放っておいたせいで
この2ヶ月間、仕事や友達など人と会っているときは平気だけど、
ひとりでいる時はほとんど「生きて」いなかった。
「考える葦」どころか、冷たい川の水の底に沈んだ岩のようだったと思う。
感じることをやめ、考えることも半分くらいやめていたのかもしれない。
少し前に、我慢しなくていい理由と機会を得て、そこでようやく全部吐き出すことができた。
それによってまたしんどいことも発生したけど、底から這い出られたし、前には進んだはずだ。
改めて、思う。
自己犠牲がいったい何を産むってんだ。
自分を幸せにできないやつが本当の意味で人を幸せになんてできないだろう。
ぼくはこどもを笑わせたい。
目の前の子も。まだ会ったことのない子も。
こどもの笑顔は、笑い声は、ぼくを笑わせてくれる。
「誤解を怖れずに言えば」、ぼくは世界中のこどもたちの兄に、父に、なりたい。
そこに迷いはない。
ただ、怖れはある。
でも、まだ到達したことのないところに行こうとしてるんだから、怖れはあって当然なんだと思う。
「それ」が本当に正しいかどうかは、今ではなく未来にしかわからない。
未来において、過去となった「今」を振り返り、確かめることでしかその判断はできない。
だから、未来で「損したくない」がために、今の「揺るぎない正解」を求めようとすることはナンセンスなのだと思う。
今、間違っていてもいい。
今、損してもいい。
今この瞬間の自分にまるごとOKを出して、自分を喜ばせるために生きることが、
未来の正解を「創る」のだと思う。
今日6月1日は、ぼくの誕生日。
「国際こどもの日」だ。
これ以上ない日じゃないかと思う。
また新たに始めるのには。
もう一度生まれなおすのには。
自分が何者であるかを決めるのは自分だ。
自分の生き方に許可を出せるのは自分だ。
いいわけはいらない。
いいわけすることを自分に許すのではなく、
「◯◯で在りたい自分で在ること」を許すことにする。
今ぼくに必要なのは、
以前より軽くなったフットワークをより軽くする「トレーニング」ではなく、
さらに一歩を踏み出す「勇気」なんだと思った。
もっと高いところからバンジージャンプを、跳んでやろうと決めた。
そんで、飛ぼうと決めた。
「月にタッチするなんてわけないぜ」って言いたい。
でもやっぱり、怖い。
だから、怖いから、自分で退路を断とうと思った。
ぼくは素顔は晒してはいる。連絡手段も一応ある。
でも言ってしまえば、それだけだ。
ぼくが考えていること、大事にしていることのアウトプットは圧倒的に、足りていない。
まだぼくを知らない人たちから見たら、顔にヴェールがかかってると思う。
届かないわ。そりゃ。
でも、届けたい。
だからこれから毎日、更新することにします。
真剣なことも、くだらないことも、
言いたいことが、話したいことが、たくさんあるんだ。
届くように届けるから、どうか受け取ってほしいです。
ぼくという存在を知ってください。
あらためて、はじめまして。
ぼくの名前は、浅野暁彦(アサノアキヒコ)です。