見渡す限り海しかないフェリーの上からこの記事を書いています。
…暇だよ。
圧倒的に暇だよ。
なぜってインターネットが使えないから。
今回の航路ではほとんどの区間で陸から離れすぎているため、ぼくが使っているモバイルルータの電波が全然届かないのですね。
じぶんがいかにネットに依存していたかがわかるなあ…。
( ´ - ` )
さて、今回はそんな状況から思ったことで、
こどもって、暇になってつまんなくなると、じっとしてられなくて、
まあ〜、いらんことしだすよね。
静かな場所、式典とかの厳粛な雰囲気だったり、
「おとなしく」してなきゃいけない状況ほど、じっとしてられない。
でもそれって、大人の視点で見てるからであって、
こどもからしたら要らんことなんかじゃなくて、必要なことをやってる。
ていうかこどもは、その時じぶんにとって必要なことしかしない。
この場合は、
「おもしろきこともなき場をおもしろく」しようとしてるだけ。
じぶんの命が弾む方へ行こうとしてるだけ。
生きものとして、正常な反応でしかない。
ちなみに「おとなしくできる」ようになったとして、
それが大人やルールという抑圧によるものか、
こども自身の意思によるものかによって、
表面的な結果は同じに見えても、その意味はまるでちがうものになる。
抑圧によってであれば、それは「無理をしている」わけで、当然ストレスが伴う。
解消できないまでも、うまく発散する方法を知っていればいいけれど、
そうでない場合、もしくは発散する機会が得られない場合は、
必ずどっかでバランスをとろうとする。
それもできなきゃ、もう爆発するしかない。
癇癪とかってそういうことだよね。
そこだけを見て「おちつきがない」とか「がまんができない」とかって、
こどもがレッテル貼られちゃうのも、親御さんがそういう目で見たまんまなのもちょっと、かなしいなあと思います。
(´;ω;`)
話を戻すと、
「おとなしくできる」のが、
「怒られないようにがまんすることができる」(≒抑圧によるもの)か
「状況に応じた振る舞いを選びとれる」(≒こども自身の意思によるもの)か
では、後者の方が望ましいとぼくは思います。
なぜなら、前者の場合は「抑圧」があることが前提になってて、
抑圧がない状況ではじぶんを律するのはじぶんであって、
それって練習してないとむつかしい。
「他人に迷惑をかけてはいけない、だから静かにしなさい」って押さえつけるよりも、
「なぜ公共の場所で静かに、おとなしくすることが求められるのか?」
ってことを問いかけて、いっしょに考えて。
その子がじぶん自身の「納得」を獲得して、
じぶんの考えで行動できるようになったらいいんじゃないかなって思います。