レクリエ日記(仮)

こどもが大好きで、いっしょに遊び楽しむことを通してこどもの「生きていく強さ」を育てたい『こども王子/こどもの笑顔クリエイター』、 「ベジ」こと浅野暁彦のブログです。(できる時に、更新。)

(そんなふうに笑う)君の顔が好きだ。

広い景色が好きだ。

 

今朝、高いビルの高いフロアで、

 

ふと顔を上げて外を見た。

 

視線のすぐ先に、

 

今まで見たこともないくらい低く、太い虹がかかっていた。

 

しかも、右上にうっすらともうひとつ。

 

 

 

「うわあ…!」

 

 

 

静かなフロアで、思わず声を上げてしまった。

 

うれしくなって、近くにいた人に、教えて。

 

その人がまた声をあげて。

 

外を見るぼくらの視線の先を、

 

周りの人達が追って、

 

空にかかる極彩色の橋にきづいた。

 

それは連鎖していった。

 

みんな

 

とてもやわらかな表情で見入ったり、

 

窓の方へ行って写真におさめていた。

 

みんな笑顔だった。

 

 

 

マジでいい仕事をしたと思った。

 

昨日、顔を上げようよって記事書いたけど。

 

こういう「仕事」をずっとやっていきたいと思っている。

 

 

 

f:id:akatsuki_jp:20190311214621j:image

迷子になっているあなたへ

もし今あなたがこの先どうしていいかわからなくなってたら、

 

「迷子」になってたら。

 

まず、じぶんのいる場所を把握しよう。

 

これ、鉄則。

 

見たことない、来たことないとこにいるせいで、わかんなくなっててもだいじょうぶ。

 

今まで歩いてきた道を振り返ったらいい。

 

じぶんがどう歩いてきたかを思い出したらいい。

 

ふらついてようが、

 

のろのろだろうが、

 

そんなの関係ない。

 

そこまで歩いてきたのは確かなんだ。

 

胸を張っていい。

 

顔を上げろ。

 

迷子になってんならなおのことだ。

 

前向かなきゃこれから向かう先見えないじゃん。

 

それでもまだ顔を上げられないってんなら、

 

思い出して。

 

じぶんのことを、思い出して。

 

これもきっと役に立つよ。

 

 

recrea.hatenablog.com

 

 

 

最後の最後に残るもの

また、「たぶんこうだろう」っていう可能性の話。

 

実証できてないけど確信だけがある仮説の話。

 

 

 

じぶんの思考から

 

自罰や自暴自棄の選択肢を無くしたとき

 

握りしめていた不安や怖れを手放せたとき

 

私利私欲にしがみつく必要がなくなったとき

 

じぶんの意識を保ったまま「我」から離れたとき。

 

目の前で起こるありのままを受け入れる空間が心の中にできたとき、

 

外部からの力によってではなく、理由なく、

 

「ただの現実に、ただ感じ入る」という現象が起こる。

 

なぜだかわからないんだけど涙が溢れてくる。

 

「それ」を絵に描くとして、ひとつの色では塗ることができない。

 

それはうれしいとかかなしいとか、とてもひとことでは言えない、説明できないんだけど、

 

それでもそのきもちをことばで表わすなら、

 

「ありがとう」がいちばん近い。

 

他者に感謝しなければならないとか、そこを目指すべきだとか言いたいわけじゃなくて、

 

ほんとうのほんとうに最後には、

 

きっと、みんなそこにたどり着く(はず)。

 

ってことが言いたい。

 

 

 

あなたは、

 

かつて、もしくは今思っている

 

『許さない』を。

 

わたしを傷つけたことを。

 

わたしにこんな思いをさせたことを。

 

わたしをたいせつにしなかったことを。

 

わたしをひとりきりにしたことを。

 

『わたしはこんなにもさみしかった』を。

 

「無かった」ことになんてできないだけ。

 

それらを許すのは、決してかんたんなことではないだろうけど

 

でも「許せない」のではなくて。

 

「許さない」って握りしめてるだけ。

 

「わたしが」許さないだけ。

 

『わたしがわたしを離したら、(ただでさえ消え入りそうな)わたしがわたしという形をとどめなくなってしまう』

 

と思っているから。

 

そんなのは怖すぎるから、絶対に手放さないってだけ。

 

 

 

それでもなにかのきっかけでそれができたなら、

 

もしくは個としての「タイムリミット」を迎えたとしても、

 

たぶん、

 

最後には、感謝だけが残る。

 

 

 

P.S.

 

抽象的すぎて、感覚的すぎて、

 

じぶんでもなに言ってんだコイツ?って思ってるけど、

 

言わなきゃいけないなあって思ってるので書きました。

 

伝わるかなあ。伝わったらいいなあ。

すべての望みは、叶うようになっている。

わかった!!!

 

望み(願い)が叶うメカニズム。

 

カニズムってか、原理。

 

仮説だけど、でも合ってると思う。

 

望みを叶えるには…

 

命を、望みとイコールにすればいいんだ。

 

じぶんの命が「望みそのもの」になると、

 

じぶんの周囲にも影響する。

 

その時の力は、たぶん理屈を超える。

 

有無を言わさず影響する。

 

人を変えることはできないって言うけど、

 

それは人為的に、相手を道具として用いるためにじぶんの都合で変えようとしてる場合の話で。

 

じぶんの持っている命…

 

魂もからだも思考もきもちもぜんぶ差し出したら、

 

差し出したら、っていうか

 

ぜんぶをつかって叶えたい!!!

 

になったら、

 

叶うようになってる。

 

なってるはずなんだ。

 

これは何度か、奇跡の起こし方として触れてきたけど、

 

おんなじことなんだ。

 

 

 

ことばで説明するのがむつかしいんだけど、

 

これぜったい伝えたいことだから

 

随時更新していきます!

こどもの信じ方を忘れた大人たちへ

世のママさん、パパさん。

 

今あなたはこう思っているかもしれない。

 

『この子はこんなふうで将来だいじょうぶなんだろうか?』

 

 

 

だいじょうぶだよ。

 

 

 

こどものことが信じられないのは、

 

こどものせいじゃない。

 

こどもに問題があるからじゃない。

 

こどもに問題があるんじゃなくて、

 

「こどもに問題がある」と信じている大人にこそ問題があるんだよ。

 

 

 

『この子はこんなふうで将来だいじょうぶなんだろうか?』

 

これは言い換えると

 

『この子の将来が不安だ。』

 

ってことだ。

 

答え、もうじぶんで思ってるじゃん。

 

「不安だ」と、「わたしが」思ってる、ってこと。

 

その怖いイメージは、想像は、

 

現実じゃないし、

 

そして、「あなたの中にしか」ないんよ。

 

こどもの中にはないんよ。

 

なのに、

 

「あなたは今のままじゃダメだ」

 

「あなたは取るに足りない存在だ」

 

と言い換えられちゃう強烈なメッセージを、

 

その怖いイメージを、

 

こどもになすりつけないでほしい。

 

いやな言い方になっちゃうけど、

 

でも実際そうだからさ。

 

不安や怖れをベースにして、

 

失敗や不遇を遠ざけようとして、

 

それらの方を、あなたのこどもよりも上に置いて信じるなんて、どうしちゃったんさ。

 

じぶんのたいせつなものを信じられる理由なんて、

 

世界中のどこ探したってないし、

 

誰かから与えられるのをいつまで待ったって、来やしないよ。

 

『じぶんはこの子を信じたい。』

 

それでじゅうぶんだよ。

 

『わたしは、この子を、信じる。』

 

って、それだけで。

 

ていうか、それしかないよ。

 

あなたの子があなたから言われたいように、

 

あなたが言われたいはずのことばを、

 

もっかい言うよ。

 

 

 

だいじょうぶだよ。

(๑′ᴗ‵๑)

 

 

 

P.S.

 

それこそ、

昨日の記事のタイトルさ。

 

忘れてしまったなら、無理にでも思い出して。

 

じゃないとぼくは悲しいや。

(´;ω;`) 

忘れてしまったなら、無理にでも思い出して。

言わずと知れた米津玄師さん。

 

『Lemon』が有名だけれども、

 

その他、というか出す曲出す曲がいちいち名曲すぎて困る。

 

好きな曲っていうとぜんぶになっちゃって絞れないんだけど、

 

個人的にドンピシャ感がものすごい曲があって。

 

この曲を作って世に放ってくれただけでもう、

 

ありがとうしか言えない。

 

『WOODEN DOLL』という曲。

 

 

kasimiru.net

 

(↑こちらだと歌詞を見ながら動画を観られます。)

 

 

 

けっして万人ウケする曲じゃないなあと思うけど、

 

ぼくにとってはめちゃめちゃ刺さる「ラブソング」です。

 

f:id:akatsuki_jp:20190307092556j:plain

(↑画像はご本人のTwitterより)

こどもは要らんことするのがしごと。

見渡す限り海しかないフェリーの上からこの記事を書いています。

 

f:id:akatsuki_jp:20190305214747j:image

 


f:id:akatsuki_jp:20190305214736j:image

 


…暇だよ。

圧倒的に暇だよ。

 


なぜってインターネットが使えないから。

今回の航路ではほとんどの区間で陸から離れすぎているため、ぼくが使っているモバイルルータの電波が全然届かないのですね。

じぶんがいかにネットに依存していたかがわかるなあ…。

( ´ - ` ) 



さて、今回はそんな状況から思ったことで、


こどもって、暇になってつまんなくなると、じっとしてられなくて、

 

まあ〜、いらんことしだすよね。

 

静かな場所、式典とかの厳粛な雰囲気だったり、

 

「おとなしく」してなきゃいけない状況ほど、じっとしてられない。

 

 

 

でもそれって、大人の視点で見てるからであって、

 

こどもからしたら要らんことなんかじゃなくて、必要なことをやってる。

 

ていうかこどもは、その時じぶんにとって必要なことしかしない。

 

この場合は、

 

「おもしろきこともなき場をおもしろく」しようとしてるだけ。

 

じぶんの命が弾む方へ行こうとしてるだけ。

 

生きものとして、正常な反応でしかない。

 

ちなみに「おとなしくできる」ようになったとして、

 

それが大人やルールという抑圧によるものか、

 

こども自身の意思によるものかによって、

 

表面的な結果は同じに見えても、その意味はまるでちがうものになる。

 

 

 

抑圧によってであれば、それは「無理をしている」わけで、当然ストレスが伴う。

 

解消できないまでも、うまく発散する方法を知っていればいいけれど、

 

そうでない場合、もしくは発散する機会が得られない場合は、

 

必ずどっかでバランスをとろうとする。

 

それもできなきゃ、もう爆発するしかない。

 

癇癪とかってそういうことだよね。

 

そこだけを見て「おちつきがない」とか「がまんができない」とかって、

 

こどもがレッテル貼られちゃうのも、親御さんがそういう目で見たまんまなのもちょっと、かなしいなあと思います。
(´;ω;`) 

 

 

 

話を戻すと、

 

「おとなしくできる」のが、

 

「怒られないようにがまんすることができる」(≒抑圧によるもの)か

 

「状況に応じた振る舞いを選びとれる」(≒こども自身の意思によるもの)か

 

では、後者の方が望ましいとぼくは思います。

 

なぜなら、前者の場合は「抑圧」があることが前提になってて、

 

抑圧がない状況ではじぶんを律するのはじぶんであって、

 

それって練習してないとむつかしい。

 

 

 

「他人に迷惑をかけてはいけない、だから静かにしなさい」って押さえつけるよりも、

 

「なぜ公共の場所で静かに、おとなしくすることが求められるのか?」

 

ってことを問いかけて、いっしょに考えて。

 

その子がじぶん自身の「納得」を獲得して、

 

じぶんの考えで行動できるようになったらいいんじゃないかなって思います。