レクリエ日記(仮)

こどもが大好きで、いっしょに遊び楽しむことを通してこどもの「生きていく強さ」を育てたい『こども王子/こどもの笑顔クリエイター』、 「ベジ」こと浅野暁彦のブログです。(できる時に、更新。)

「明朗会計 べジーシッター!」(料金について ※改訂版)

※改訂、追記した箇所は色付きにしてあります

(※最終更新:2022年2月)

 

 【重要】

ジーシッターの種別(ドネーション制/料金制)を問わず、

・ベジのマスクなしについてのご了承

・家庭内で「一定期間内に」新型コロナワクチン接種した方がいないこと

ご家族にベジを呼ぶことの了承を得ていただくこと

上記3点をシッターご依頼の条件とさせていただきます。

 

マスク/ワクチンについての詳細はこちらをご覧ください。

↓↓↓

recrea.hatenablog.com

 

 

「これから」のベジーシッター、

今日は料金についてお知らせします。

あとなんでこうしたのかってのもちょいちょい説明していきます。 

 

 

まず改訂について。

ここが一番重要なとこなんだけど…

 

 

ドネーション制を復活させて

 

 

料金制

 

出張料のみで報酬不要のドネーション

 

 

どちらを選んでもいいハイブリッドスタイルにします!!!

(๑ÒㅅÓ)ノ

 

 

 

 

なんでかって、

あのね、ぶっちゃけて言うけど

 

 

ご依頼が来なくなったのですよ。笑

そりゃあもうびっくりするくらい。パッタリ、と。

(´;ω;`) 

 

 

それが料金制になったせいだと単純には考えたくないし、

でもそのおかげ?で、「奇跡の旅」についてまた書き始める時間ができたし、

これは采配なのかしらんとも思ったんだけど、

 

ぼく、

こどもとふれあえてないと、如実にげんきがなくなっていくのね…!

(´•̥̥̥ ·̭ •̥̥̥`)

 

だから、こどもと遊べないって、冗談抜きで死活問題なんですよ…!!!

(´;ω;`) 

 

 

こないだお父さんバンクのイベント「よってたかって運動会」に行ったんだけど、

そこで命を繋げた感、あった。笑

 

https://www.instagram.com/p/BZ_Yu7DA3Ya/

俺なら今日は#お父さんバンク の #よってたかって運動会 と銘打ったイベントで小5の女の子の応援に行ったんだけどすごいかっこよくてグッときたし、その子が出番じゃない時座ってお茶飲んでたらうしろにママがいなくてさみしくて泣いてる子がいたから一緒に遊んでたら、その子の友達もわらわら群がってきてあれよあれよという間に計5人にもみくちゃにされて楽しそうにしてるところを激写されたよ#安定の#こどもホイホイ#くるしゅうない#こども王子#こどもの笑顔クリエイター#ベジーシッター

 

 

それで、

そもそもがシッターだけで生活費を稼ぐつもりもなかったし、

もっとわかりやすく、そして頼みやすくするためにブラッシュアップしてみたつもり。

 

例えば、

移動を含んだ実拘束時間での料金とか、ぼくはいいけど依頼する側からしたらわかりにくかったかな、とか。

あと、兄弟姉妹の2人を同時に預けたい人って結構いたから、そこ単純計算して1.5倍の料金になるのハードル上がっちゃうかなあ、とか。

 

ほんで、決めたん。

 

 

ぼくにお金を「払いたい」と思ってくれる人のための「基準」として料金は決めて、ちゃんと提示する。

んで、お父さんたちの「立場」、「きもち」も守る。

 

同時に、

 

ぼくが「たいせつにしたい世界観」をたいせつにして、

今まさに目指している「ヒーロー」としての道も歩んでいく。

 

両方、やろう。

って。

 

 

ちなみに、

料金制への移行発表前から、そうしようかなという考えはあったんだけど、

どっちつかずでやるより、とりあえず振り切ったやり方でやってみて、

どうなるか結果を見てみたいというのもあってビジネスオンリーでやってみてた。

 

そんなわけでした!

(๑ÒㅅÓ)ノ

 

 

というわけで!

詳しくは、こうなります。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

《ベジーシッター(出張託児)料金》

 

【出張料金】(交通費等を含む)
東京都・神奈川県内
→2,000円
※交通費等が超過した場合は実費から1,000円単位になるように追加

例:交通費等2,100円→出張料3,000円

立川駅出発で計算してもらえたらおおよその目安になります。

立川市からバイクで片道30分以内で行ける場所なら出張料金は1,000円です。

 

【基本料金】(こども1人)
往復にかかる移動を含む拘束時間

実稼働時間

・3時間まで

→3,000円

5時間 6時間まで
5,000円 6,000円

5時間 6時間超〜10時間まで
→10,000円

拘束時間が10時間を超える場合は応相談

(※上記全て消費税込)

☆複数人数の場合は追加1人につき基本料金の半額/兄弟姉妹であれば計2人まで無料

 

【キャンセル料】
ご予約をキャンセルされる場合は、前日18時以降はキャンセル料として基本料金の全額をお支払いいただきます。

予約時間分の基本料金について下記の割合を乗じた金額をお支払いいただきます。
6日~3日前: 50%
2日前〜前日18時:70%
前日18時以降: 100%

ドネーション制ご希望の場合でのキャンセル、また当日待ち合わせ等の最終確認の連絡が前日までに取れない場合も同様とさせていただきます。

 

【その他】
深夜早朝の時間帯や遠方、宿泊を伴う託児、またイベントでのご依頼については別途相談を承ります。

 

【重要事項】
お預かり中はこれまで同様、お子様の安全に最大限の注意を払いますが、万一事故やケガなどをされた場合、当方では全ての責任を負いかねます。
個人的に、個人賠償責任保険にて万一の場合に備えておりますが、シッターのサービスを料金制で提供する場合は同保険が使えなくなってしまいます。
今後は、事故やケガについて自己責任である旨同意していただくことがシッターご依頼の条件となります。
ご心配な方は、事前に各自でお子様の傷害保険などにご加入いただくことをお勧めします。

 

【ご依頼方法】
FacebookTwitter、LINEなど各種SNSメッセンジャー、メールにて
ご希望の日時や場所、託児の内容などをご連絡ください。

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

ほい。

こっから項目ごとに説明していきます。

(だいたいぜんぶについて悩んだし迷ったのです(´・ω・`))

 

 

【出張料金】

 

料金が発生するのは実拘束時間だけでいいかなと思ったんだけど、

その都度交通費があるわけで、実費にすると、

調べるのにぼくだけでなく、小銭が出てくるから親御さんにも面倒かなと。

新生ベジ生みの親のママ友さん二人からの「明朗会計でお願いします!」という要望が根っこにあり、

とにかく「わかりやすさ」を優先しています。

 

それで一律料金にしました。

ぼくは現在立川市に住んでいますが、

新宿駅/渋谷駅でも往復1000円ちょい。複数の鉄道会社乗り継いだりすると1000円では足りないことが多く。

これまでの傾向で、だいたい2000円あれば足りる感じなのでそう決めました。

 

ちなみに、

ニーズ無いと思うけどぼくんちに来てくれたら当然だけど出張料金はかかりません。
来てもらうには部屋片付けなきゃならんな、どうしような…笑

ぬいぐるみとあと絵本はけっこうある。

あとごはんはベジ料理をぼくが作るよ!(※出張でも作れまーす!)( ´ ▽ ` )ノ 

 

 

【基本料金】

 

これもほんとに迷いました。
小刻みに、例えば1時間ごとの料金にした方が親御さんからするとうれしいとは思うけど、

ここはわかりやすさ/覚えやすさと、ぼくの都合を優先させてもらいたい。

これまでの傾向では、だいたいはドアtoドアで1時間はかかってて、

そうすると5時間の料金では単純計算して託児は実質3時間になるけど、

だいたい少なくとも2〜3時間以上のご依頼が多く、

基本料金のみで考えて拘束時間を時給にしたら1000円なので、決して高くはないかなと。

 

【キャンセル料】

これまで何度もダブルヘッダーもやってきてますが、

基本的に1日に1件の受付にしてる(親御さんのお仕事の都合などでお戻りが2〜3時間遅くなったりすることもままあり、後の予定は入れていない)ので、

キャンセルになるとまる一日分、お仕事ができなくなってしまうのです。

ドネーション制ご希望でも、↑ここは変わらないのでキャンセル料についてはお支払いいただきます。

 

【その他】

「こういう内容なのですがダメでしょうか…?」とよく聞かれるのですが、

基本的にNOと言いたくないので、とりあえずなんでも相談にのりますよ、ってことです。

(๑ÒㅅÓ)ノ

 

【重要事項】

これは内容そのまんまですね。

とりあえずは、こうじゃないと「始められない」。

いずれは賠償責任保険などをぼくの方でカバーできたらいいなあとは思っています。

(๑ÒㅅÓ)ノ

 

【ご依頼方法】

今んとこ申し込みフォームとかないので、連絡手段はなんでもいいです。(੭ु´͈ ᐜ `͈)੭ु⁾⁾

(だからって狼煙とかモールス信号はNGね♪笑)

 

 

とりあえずこんな感じです!

よろしゅう!

( ´ ▽ ` )ノ

 

 

 

P.S.

サブタイトルはあれです、「機動戦士ガンダム」、「交響詩篇エウレカセブン」、「天元突破グレンラガン」みたいな…。

「べジーシッターの料金についてのご案内」とか、初めて普通のサブタイにしようかと思ったんだけど、やっぱりやだです!で。

でも説明しないときづいてもらえないと思って書きました。笑

「これから」のベジーシッターの話をしよう

前回 

recrea.hatenablog.com

 

からの続き。

 

個人による出張シッターという概念、そしてそれによってこどもを中心に家族の笑顔が増えるというイメージ。

それらの「広がり」という点と、

アンパンマンになりたい」というぼくの夢。

そのふたつが、「このままでは難しい、遠いな」と感じていたところ。

 

先日、何度もリピートしてもらっているママさんの久しぶりのシッターご依頼から話がふくらんで、

同じくリピートしてくれているママ友&お子さんといっしょに2家族+ベジでお泊り会をしてきたんだけど、

(楽しすぎてこどもからお泊りおかわり!のリクエストがあり、結局2泊になった!笑)

3日目の昼にママさんのおうちで、こどもたちはゲームしたり、ぼくら大人3人は互いの近況報告などをしていた。

 

その中でシッター活動開始当初からの「おきもち制」というスタイルについての話になったのだけど、

ベジ的にちいとばかし、否、だいぶショッキングな話をされたのです。

 

その時の話の趣旨をまとめて、また箇条書きにしてみます。

(書いててまたちと胸が痛いけど(´;ω;`) )

 

 

・ぼくが受け取り下手なことで、相手を苦しくさせてしまう

 

ぼくとしては、ただでさえこどもたちと遊ばせてもらってありがとうなのに、

おきもちまでいただいたら、「盗人に追い銭」ならぬ「遊び人に追い銭」である。

だから時に『申し訳ない』ってきもちが出てしまうんだけど、

 

マ「お金も『愛』だし、ママたちからしたってほんとにありがたいしベジさんにあげたいんだから、遠慮なく、喜んで受け取ってほしいんだよ」

 

マ「ていうか申し訳なさ出されると、喜んでほしかったのにそのまま受け取ってもらえないことでテンション下がる」「だよねー」

 

マ「それに、ベジさん固定収入ないんだから、お金なくて死なないまでも病気になって倒れちゃったりしたら、『わたしがあの時もっとお金を渡していれば…!』ってなっちゃうじゃん!」「うん、それほんとかんべんですよ」

 

マジかー!(´;ω;`) 

 

 

 

・人に紹介をする時…とてもめんどくさい!

 

お二人には、ぼくのことをたくさんの方に紹介してもらっている(いつもマジがとうございます!!(´;ω;`) )のだけど、

その際、「おきもち制」というスタイルは紹介する側にとってとてもやっかい、とのことだった。

 

なぜなら、「今現在一般的でない」こと、「基準がない」ことによって「これこれこう!」という説明では済まないのだそうだ。

そしたら、「なぜそういうスタイルなのかとかその人に直接説明するから、連絡をぼくに振って〜」と言ったのだけど、話はそう単純ではないらしかった。

それをすれば確かにぼくの理念?はわかってもらえるかもしれない、けどその人たちからすると、

『相場より少ない額→ベジさん不服→紹介をしてくれた◯◯さんに対して失礼になる→それはいけない!』という意識が働いて、

結局「みなさんはいったいいくらくらいを払われてるんでしょうか…?」って話になるんだよ、

だからベジさんに説明してもらったとしても意味ない、と。

 

  

マジかーー!!(´;ω;`) (2回目)

 

 

ならない!

不服に!!ならないから!!

遊ばせてくれるだけでそれはもう「ふくふく」してっから!! (´;ω;`) 

 

よく「ほんとにタダでいいの?」ってきかれるけど、

「いいよー!( ´ ▽ ` )ノ」って言って、交通費のみをいただいても、

ぼくはこどもと遊ぶのがほんとに好きなんだってわかってもらえたーと思って、それもすごくうれしいんだけどね…。

 

ほんで、

そのママさんたち的には

「明朗会計の料金制にしてもらえると、紹介するにもすごく助かる!

それに名実ともにプロフェッショナルなわけだから、初めてのママさんたちもより安心感が増すよ!」

ってことだった。 

  

 

そして、ぼく的に一番シビアだったのがこれ。

 

 

・すごく助かる、けど…同時に家庭に問題の種を撒いてるんじゃない?

 

これまで、シッター依頼は全てママさんたちからだった。

パパさんたちと直に接することも何度もあったけど、依頼はママさんたちから。

 

ぼくはこどもと遊べてうれしい→ハッピー。

こどもはハードに遊んでもらえてうれしい→ハッピー。

親御さんはこどもを見てもらえて助かる上、楽しませてもらえてうれしい→ハッピー。

 

三方よし」でみんなハッピーやん、と思っていた。

 

が。

 

突きつけられたのは、

「親御さん」とひとくくりにしてではなく、「パパさん」のきもちにクローズアップしてみた時、

「果たして彼らはほんとにハッピーか?」

という問いだった。 

 

要は、

パパさんたちの立つ瀬がないんじゃない?ってこと。

 

それは以前から実際にパパさんである友人からも指摘されていたし、自分でもわかっていた。

 

「そりゃあ父親なら誰だって自分のこどもと遊びたいよ。喜ばせてあげたいよ。

でも父親一家の大黒柱であることが多いし、家族を養う責任を背負ってる。

きにいらないやつにも頭を下げて、必死に、それこそ身を粉にして働いてる。

たまの休みの日にこどもに遊んでって言われてもきもちと体がついてかないこともある。

そんなところに、どこの馬の骨ともしらない男(ベジ)が颯爽と現れて、超楽しそうに遊んで、

結果こどもとママにキャーキャー言われてる。

そんなの、たぶん手放しで喜べないよ。

俺はベジ君のこといろいろわかってるからいいけど、ベジ君のこと知らない父親たちからしたら

『おいしいとこだけ持っていきやがってなんだあの野郎は』ってなるんじゃない。」

 

そういう心の動きがあるだろうことはわかってたけど、

役割分担で、できる人ができることやって、それでこどもが笑えるならいいじゃん、

ぼくは敵じゃなくてパパさんあなたの味方だよ、協力していっしょにこどもを育てていこうよ、

それはできる、って思ってた。

 

んで、ママさんたちとの話に戻ってくるけど、

…実際にはそうはならないんだって。

 

パパさんたちのそのもどかしさが、やりきれなさが、いらだちや怒りになって、ママさんやこどもに向けられてしまうんだって。

 

そうするとどうなるって、

ケンカになるよね。

いいとこ不機嫌でとどまったとして、

その空気が、ひいては家庭内不和につながってるよ。

てか、そういう話実際に聞いてる。

でも善意でやってくれてるベジさんには、どうしてくれんのってあたることどころか、

それを話すこともできないんだよ、って。

 

 

……

 

………

 

 

マジかーーー!!!(´;ω;`) (3回目)

 

 

それ聞いて、

 

凹んだ。

まじで凹んだ。

 

ひょっとして、おれシッターなんてやらないほうがよかったんじゃないかと思った。

あくまでも自分のためにやってきたけど、

自分が好きなことでひとのためにもなるなら素敵じゃん、って

自分が関わった家族がハッピーになるなんて最高じゃん、って

よかれと思ってたけど、全然よくなかったのか、って。

 

もちろん全部のご家庭がそうなわけじゃないよ、と言ってもらえたけど。

 

 

ぼくの中に「受け取る」ということにブロックがあるままで、

そしてパパさんたちのきもちについてなおざりにしたままでは、

みんなから愛されて信頼される「アンパンマン」になるのは難しいんじゃない?

 

でもベジさんが趣味だったのをビジネスにして「お金をもらう」って決めることで、

それらをまるごと解決できるんじゃない?

 

って。

 

こどもを見てもらうためのお金を「払わせてあげる」こと、

(ママさんもだけど)特にパパさんたちの「愛」を発揮できる流れを作ってあげることで、

それが循環していって、みんながハッピーになるんじゃない?

 

って。

 

必要なのって、もうベジさんが「受け取る」覚悟するだけでしょ?

とはいえベジさんの人生だから、どうしても「趣味」でやり続けたいんだったらしょうがないけど、

そのままで「アンパンマンになりたい」って野望も捨てないって言われたら、

それはずるいと思うし、応援したくない。

「俺アンパンマンになるために覚悟決めます、ちゃんと受け取ります!」

って言ってくれたらうれしいし、これからも超応援したい!

 

って。

 

ぼくはそれでウンウン唸って、しばらく黙り込んでしまったけど…。

 

 

やっぱり、アンパンマンにはなりたいと思った。

 

大人みんながこどもに優しい、

「自分たちが育てなきゃ」じゃなく「みんなで育てたい」って自然に思えてる、

みんなハッピーな世界が見たいと思った。

 

だからそこでもう、選択肢は他になかったのです。

「こっち」を歩いてくんだな、ってのはその時点でもう決まってた。

(発表するまでに数日かかったけど。)

 

 

というわけで。

 

(だいぶはしょったり、セリフをわかりやすいよう意訳してたりするけど、)

これが、「これから」のベジーシッターが新たに生まれた、「誕生日」のお話でした。

 

 

内容的にとても言いにくかっただろうし、ぼくは素直に言うこと聞かない頑固者だし、それでも付き合ってくれて、新たなぼくを誕生させてくれたママ友のお二人に、超ありがとう。

文章を通じて、誕生に立ち会ってくてた皆さんにも、ありがとう。

 

 

さて。

ベジは果たしてほんとうに「アンパンマン」になれるのか?

 

それは…「これから」のお楽しみ!笑

 

(追記 その後、ドネーション制と料金制、どちらでも選べるハイブリッドスタイルにしました!詳しくはこちら!)

「これまで」のベジーシッターの話をしよう

Facebookでは先にお知らせしていましたが、
ぼくのライフワークである「全世界出張型ベビー/チャイルドシッター」について。

これまでの「交通費のみいただければ報酬は不要(おきもち/ドネーション制)」というスタイルから、
料金制、つまり「ビジネス」にすることにしました!

(追記 その後、ドネーション制と料金制、どちらでも選べるハイブリッドスタイルにしました!詳しくはこちら!)


あれだけ「ビジネスにはしない、したくない」と言っていたベジが、なぜ?と思われたかもしれません。

きになるところだと思うし、久しぶりのブログ更新ですが、
そこに至った経緯についてお話ししようと思います。

 


なぜお金が要らなかったのか

 

 

要らなかったから。以上!

 

…ではわかんないよね。笑

箇条書きにしてみます。

 

 

・こどもと遊ぶのが趣味


遊べるだけで楽しいから報酬は要らない。充分すぎるほどもう「もらっている」。
たとえ赤ちゃんだとしても、こどもの面倒を見ることを「面倒」だと思っていない。

仕事ではなく趣味だから、そもそも「対価」が発生すると思っていない。 

 

 

・世界中の子たちのお父さん(もしくはお兄さん)になりたい


自分のこどもたちと遊んだり世話をすることでお金をもらおうとする親はいない。
実際には血が繋がっていなくても「口先だけでも親になりたい」と思っているので、料金を設定するのは「違う」と思っていた。

 

 

・こどもは「みんな」で育てたらいんじゃね?


上とかぶるんだけど、たとえ血が繋がっていなかろうが、こどもは世界の「たからもの」だからみんなで「よってたかって」大切にしたらいいと思っている。
さらに言えば、こどもを育てている親御さんたちも大切にされていいと思っている。
子育てが「苦行」になってしまっている現状は、どう考えたっておかしい。

 

 

そして、

 


・そもそも、お金って「絶対に必要」?


お金は確かに便利だし、あると超役に立つけど、絶対無くてはならないものだとはぼくは思っていない。
その時点での「持っているお金の多寡」や「頼れる人の不在」など、
親御さんたちが楽になったり幸せになるために「条件」がある、ということが
「はい!ヤダです!!(๑ÒㅅÓ)ノ」
なのだ。

 

ぼくがじぶんの「好き!」なことを活かして、動いていくことで、
お金を介さなくても繋がれる。
お金を払わなくても優しくされることがあっていい。
その「可能性」。

そういう世界が「実際にあるんだぜ」って、人に知ってほしかった。
シンプルに、ぼくが「世界がそう在ってほしい」から、そうなるようにやっていた。
のですよ。
(๑ÒㅅÓ)ノ

 

ちなみにぼくがやっているベジーシッター。

ほんっっっとうにありがたいことに、

自分から発信しなくても口コミで広がっていって。
勝手に紹介してもらえて、勝手にシッターの依頼が舞い込んでくる。

ぶっちゃけ、だから余計にブログを書く必然性というものがぼくのなかで希薄になってしまっていました。

(はい、すみません!!言い訳です!!)

 

加えて、昨年12月からぼくは「奇跡」というものを信じるようになって。

『その流れに乗り、その中に居続けることで、いったい「どこ」までいけるのだろう?』ということを、

じぶんを使った「実験」を通して、「確認」したいというきもちもあった。

そして、

 

このままいけば、引き続き託児の依頼も来るし、

応援もしてもらいながら(相変わらずその日暮らしではあっても)、きっと生きてはいける。

と思っていました。

 

ただ、

それと同時に、

 

個人でやる出張シッターという概念の「伸び」や「広がり」という点で、

そして「アンパンマンになる」というぼくの夢を語る時、

このままでは、たどり着くまでがとても遠いな、と感じていたのでした。

 

 

つづく!
次回、「これから」の話へ…!

 

recrea.hatenablog.com

南の国から'17夏〜(これから始まる何かのプロローグ)

ご無沙汰しております。
ブログ「書く書く」詐欺すらしなくなったベジです。
こうして書くのも何度目かわかりませんが、更新を楽しみにしてくれてる方、ごめんなさい!
 
本当に久しぶりの更新ですが、
今、人生で2度目のタイに来ています。
理由はいくつかあるのですが、それらを説明するのには、昨年の10月頃まで遡らないといけません。
前回のタイ初訪問が12月で、まずその理由を説明するのにそこまで遡らないとなのです。
 
 
ーーーーー
 
 
その当時、自分を取り巻く環境に適応することに対する違和感を、それまで以上に強く感じていて、
 
「(適応するべく我慢をすることが)そろそろ限界なんじゃないか」
 
「次のステージ(?)に行くためにバンジー(ジャンプ)を飛ぶタイミングなのではないか」
 
というようなことをしきりに考えていました。
 
 
既知の人を含め、その時「会いたい!」と思った人に躊躇することなく会いに行っていた時期でした。
自分のやりたいこと、自分の存在を、知らせたいと思っていた。
また、僕が会いたい人は「自分軸」を持っている人ばかりで、背中を押してもらいたいというきもちもあった(が、それを正直に伝えてもいた)。
 
その中でも、とりわけ大きな存在だったのが「トランポリンを担いで、世界の笑顔をつなぐ旅」をする石原舞さんだ。
 
舞さんは現在、カンボジアプノンペンを拠点としていて、何ヶ月かに一度帰国し、自身の活動についてのトークイベント等を精力的にやっていて、
昨年10月の帰国時にもいくつかのイベントが開催されていた。
(ちなみにその前に帰国時もそうだったのだけど、)どうにもスケジュールが合わず、『今回も会えないのか…』と思っていた。
 
以前の僕なら「しかたがない」と諦めていたところだが、その時は違って、
『いや!会いたい!会って話がしたい!』と思い、本人に直接コンタクトをとって、(←文面わりとそのまんまの感じで)伝えた。
 
そうしたらなんと、忙しいスケジュールの間を縫って、時間を作ってもらえた!
彼女も好きだという新宿三丁目のブルックリンダイナーで待ち合わせすることになった。
 
 
そして約束の日、小雨降る中新宿へ。
 
いざ会ってみると、
(写真を見てわかっていたはずだけど、)イメージよりもずっと小柄で、
『この体にあんなエネルギーが凝縮されているのか!』と改めて驚いた。
 
「こども」と「笑顔」について、たくさん話をした。
それらについての価値観が思っていた通り、やっぱり似ていて(だからこそ直接会って「だよね!?」って確認したかったのだけど)、
『ありがてえ…!』と思った。
 
互いの活動についてのことを交えながら、想いを伝えあった。
 
その中で、舞さんが
「タイに居るとある少数民族の子へ、クリスマスの時期にサプライズでトランポリンをプレゼントしに行く計画」
について話してくれた。
(僕はそれを「勝手にサンタクロース」と勝手に呼んでいた)
 
それを聞いた時、何か、ピン!と来た。
 
 
『あ、それ…行きたい!!!』
 
 
と思い、それをそのまま口に出していた。
そして、
「こどもたちとは言葉が全く通じなくたって一緒に思いきり遊べるし、彼らを超絶笑顔にすることが僕にはきっとできるはず」
という想い/仮説があったのだけど、それを確認というか自分で証明しに行きたい、とも思った。
 
「でも…その時仕事休めるかな…?」と不安がよぎって「行けたら行く」ということを一度は言ったのだけど、
 
 
「いや、俺、行きたいと思った!思っちゃった。だから、行きたい!もしかしたらダメかもしれない、けど行きたいから、行けるようにする!!!」
 
 
というようなことを興奮気味に宣言して伝えたのを覚えている。
そしてその興奮を保ったまま、わくわくしながら家に帰った。
 
 
それで急に端折るけど色々あって(ホントに色々あって)、
「状況」がどんどん僕の背中を押してくれるようになって、手を引いてくれて。
 
余白に、奇跡が舞い込んだ。
年末のタイ行きの航空券を予約した。
 
 
さらなる奇跡の続きをどうしても書き記して伝えたいと思い、本っっ当に今さらだけど、
書いていきたいと思います。
 
 

 

続きはこちら!

 

recrea.hatenablog.com

どこにでもあるような家族の風景

昨日もベジーシッターしてきて、とてもすてきな日になった。


夜帰宅しベッドに入って眠る前に『いつにも増してこんなあったかいきもちになったのはいったいなんでだろう?』と、一日を振り返って分析してみた。
したら、分析というほどのことでもなく、すぐにわかった。
 
ーーー
 
ぼくに託児のご依頼をいただく際の理由はなんだっていいんだけど、
親御さんのお仕事の都合で、ということが比較的多い。
そうするとたいていぼくとお子さんだけでお出かけしたり、もしくは家でお留守番をすることになるのだけど、
昨日は朝からお子さんとお母さんといっしょに、お母さんの実家におじゃましての託児になった。
 
それで、お母さんはパソコンを使ってのお仕事でとなりの部屋にいて。
その間ぼくとお子さんがリビングで遊んでて、おばあちゃんはキッチンでごはんの準備をしてくれてて。
みんなで昼ごはんを食べ、昼過ぎから公園へ出かけて遊びたおしているところへおばあちゃんとわんちゃんが散歩に来て、
いっしょに買いものに行って帰宅し、
おじいちゃんがお仕事から帰ってきてみんなで夕飯を食べて、また少し遊んでバイバイした。
 
出来事としての説明としてはそれだけなんだけど、じゃあいつもと何が違うって、
お子さんとぼくの周りに、近しい人たちが居たってこと。
 
そして、それが分析した結果であり答えで、
そこに居たみんなが「家族」で、それぞれが意識することなく自然と相手のことを想っていた、ということ。
4人と1匹(と1匹)が(「1匹」とのお別れというさみしい一場面を含めて)、メーターを振り切るようなアッパーなハッピーさでなく、ただおだやかに「家族」だった。
それを目の当たりにしたことと、その空間の中にいたこと。
 
そしてぼくは形としてはゲストだったんだけど、そのお子さんのことが大好きなことを皆とてもわかってくれていて、
「そこ」にとけ込んでいた、自然に「家族の一員」としてとけこませてもらっていたな、と。
それがとりわけここちよく、あったかかったんだ、と思った。
 
血が繋がっていてもいなくても、種(しゅ)が違っても家族になれる、家族でいられる。
 
友だちのようでいて、他人のように遠いこともある。
二度と触れることも、会うこともできなくなることもある。
 
それでもこの先、相手のことを思い出すたび、きもちはいっしょに居るのだと信じていられる安心感を、感じた。
 
そして、
これが思い悩む「ヒト」といういきものにとって希望でないとしたらなんだろうか、と思った。
 
ふだんぼくには祈るという習慣はないけど、これがずっと続きますようにと、祈りたくなった日だった。
 
 
おしまい(でも、つづく)。

「風前の灯火」よりも、「風船の灯火」になろう。

わかり始めたmy revolution

 

昨年10月頃から、自分を取り巻く環境が変わりだした。
自分が以前よりも「動き出した」ことが大きいように思う。
また、それは自分をよりオープンにして人に会い、
想いを伝えていったことと無関係ではないように思う。

 

何をしたっていい、どうなったっていい、と知っているはずなのに、
人一倍心配性で不安に支配されやすい自分を、
「正解」や「効率」を気にしすぎるあまり、
考え込んで動けないでいる時がしばしばある。

 

やりたいことを「やっていない」時、その足元は沼のようになっていると思う。
熟考と言えば聞こえはいいが、沼に足をとられて歩みを進めることができなくなる。
時間が経てば経つほど、深みにはまっていく。

 

たぶん、というか間違いなく、ぼくは怖がりなのだ。

ほんのささいなことにいちいちビビりまくり。

立ち止まったそこから、一歩、踏み出す勇気をだすことを、いつからかずうっとやってこなかった。(まあ、よくある話だ。)

 

「こうあるべき」、「こうなってほしい」という親心/親切心、あるいは期待という名のプレッシャーに反抗し、
「死なないために、ただ生きることの何がいけないの」と最低限の収入を確保し、ただ生きていました。
丁寧に。
しかし、漫然と。

 

ある時点で、「ただ生きる」ことに、飽きてきた。
放課後等デイに携わり、いろんな年齢の、様々な個性を持ったこどもたちと触れ合えるのは楽しい日々ではあった。
でも、もっと自分を楽しませてやろうと思った。
「何をしている時がいちばん幸せだろう?」
自分に問うてみた結果、出てきた答えは
「こどもに制約を課すことなく、やりたいようにやらせてあげて、いっしょに思いきり遊んで、笑いころげている時」だった。

 

ブログを作り、「こどもと一日遊ぶサーヴィス」をはじめた。

 

同時に、臆病風がどこからともなく吹きつけてくる。

 

『無償でこんなことをして、あやしいことこの上ない。後ろ指を指されたりしないだろうか』

 

そんなことはなかった。
あったのかもしれないが、自分がそれを見つけようとしない限りは、
それは「無い」のと同じだ。

 

SNSのアカウントをさらして、面倒なことにならないだろうか?』

 

ならなかった。
むしろ入口が増えて、直接連絡をくれる人が増えた。

 

『ものすごく個人的な、情けない気持ちを、綺麗事を、かっこうわるい現状をさらけ出して、見放されたりはしないだろうか?誤解されたりしないだろうか?』

 

しなかった。
こんな更新頻度の低い貧弱ブログに綴られた言葉に、
「共感した」、「勇気づけられた」、「すくわれた」(!)とまで言ってくれる人たちが現れた。

 

なんてことだろう。
なんてすてきな話だろう。

 

ガクガク震える体に、「おいッ、しっかりしろよォッ!」と拳を胸に叩きつけ、
「一歩」踏み出したら、世界の方が勝手に、ほんの少し変わっていった。
いい方に。やさしい方に。

 

世界は、人は、やさしかった。

 


「自分を生きる」人たち

 

ぼくがやってきたのは、シンプルに自分がいちばん好きなことだ。

「こどもと思いきり遊んで、笑顔で親御さんに返す。」

いちばん好きで、命をかけられることを楽しんでやる、
そのためにいちばん必要なのは、「一歩」を踏み出すこと、
その勇気を出すことなのではないだろうか。

 

そして、ぼくが尊敬する今ぼくの周りにいて「自分を生きている人」たちも、
たぶんそうなのではないだろうか。

 

「とにかくやばいことをやる」いばやの人たち。

もはや説明不要の感すらある、
新潟生まれの不死鳥、ひたすら「自分」を生き続け、平成の吟遊詩人とも称される孤高のヴァガボンド(しかし彼の周りには笑顔の人が集まる)、いばや通信の坂爪圭吾さん。

 

“stay hungry, stay foolish”を地で行き(生き)続ける、神出鬼没のハートフルDA天使・PE天使コンビ、team-0の嘉向徹さん、保科亮太さん。

 

ハッピーとスマイルの権化、極彩色のメルヘンチックイラストレーター、MAYU CHAPAWONICAこと山倉麻由美さん。

 

ほんとはあまり人に教えたくない片瀬江ノ島にあるここだけ外界とは違う時間が流れる「幻」の古民家素敵カフェ、喫茶ラムピリカの千秋さん。

 

そしていばやの人たち以外にも、
「移動型座敷わらし生活」で全国行脚するその存在が「癒しの女神」、ボディセラピストでありイラストレーター、ハラフワティの村元里弥さん。

 

MAYUさんとコンビを組んでいる、その人その人のいちばん素敵な笑顔を引き出す天才で、旅するフォトグラファー、豊住千明さん。

 

算命学と臨床心理学を携え、人の人生に光と愛を見せる輝きの伝道師、秋田由里さん。

 

常識とそれに囚われた心を完膚なきまでに叩きのめし自由へと解き放つ愛のクリエイター、藤井みのりさん。

 

そのパートナーで、計り知れない妄想力を具現化し世界を騙す、やさしい天才詐欺師でユニークすぎるアーティストのカヤノヒデアキさん。

 

「インド人にしか見えない純日本人」などという説明がもはや不要の、ジェットコースターのような人生を送るマルチタレントブロガー、カルロスこと小林勝宗さん。

 

軽いノリで飄々と国境を飛び越え、適当なことをいいながらも誰一人傷つけず自分がいちばん楽しんでいる、現在はヨーロッパ周遊中のマルチリンガルブロガー、大胡田真隆さん。

 

ロンドンへの憧れを胸に、ツテもお金も語学力もない状態で単身渡英、逆境を楽しみながら突破し、美(とBeer)を愛するヘアメイクアップアーティスト、宮西亜季さん。

 

50円で自分の時間を出張レンタルしながら夢を追いかけ、人に問いかける若き哲学者(ときどき魔女っ子)。愛の爆弾、あいぼんこと平岡愛さん。

 

「トランポリンを担いで歩き、世界を笑顔でつなぐ旅」をする、誰よりも笑顔の持つ力とすばらしさを知る、空跳ぶ小さなパワフルガール、石原舞さん。

 

(ほんとは他にも紹介したい人がたくさんいるけど 、書ききれないのでまた(´;ω;`) )

 

それぞれが圧倒的な魅力とユニークさ、ぶっとんだ思考を持ち、しなやかに、しかし力強く生きる彼らは、非常識であったり破天荒なイメージを持たれるかもしれない。
しかし実際は、むしろものすごく「常識人」だったりする。皆人当たりがよくユーモアがあり、人となりはごくごく「フツー」の人だ。
ただ、「常識」を持ちながらも、それにとらわれずにいる人たちだ。
自分がたいせつにしていることにどこまでも真摯で、それを実現するために、実現し続けていくために、何度も何度も「一歩」を踏み出す勇気を出して、乗り越えてきたんだと思う。

 

(ぼくはぼくでしかないから、彼らのようになりたい、とは思わないけど、)

ぼくも、「そっち側」へ行きたい。

 


ぼくはアンパンマンになりたい

 

ぼくには夢というか野望があって、
誰に対しても分け隔てなく愛し守る、誰しもが知っているアンパンマン(のような人)になりたい。

 

そんなぼくに必要なのは、勇気だ。
愛は、もう持ってる。
こどもたちへの掛け値なしの愛情を、持ってる。
どんな子とも仲良くなれる「大好き!」を持ってる。


感じやすすぎて、何十年もあほみたく、小さなこどものように傷ついてきたからこそ、
どんな子の気持ちもわかる。共感できる。

もちろん、他人の気持ちなど本当の意味でわかりはしない。想像でしかない。でも想像は「できる」。ぼくは「あなた」の気持ちを想像したいと思う。

「あなた」にはなれない。だからこそ、あなたに寄り添える。いっしょに泣き、いっしょに笑いたい。
そんな気持ちを、持ってる。

 

ぼくに足りないのは、
その時、その都度、自分の本当の気持ちを素直に、世界に向かって放つための、
あとほんのひとかけらの勇気だけなのだと思う。

 

そして、その勇気も、必ずしも自分の中からしぼり出さなくてもいいことがわかった。

なぜなら、勇気は「もらえる」から。


勇気を出して、一歩踏み出してみたら、
自分の「大好き!」を放ってみたら、
なんのことはない、「だいじょうぶ」だったし、
そして、でっかい「ありがとう!」やウキウキする「またね!」をもらえて、
それらは等価交換の法則を完全に無視していて、
気づいたら使った以上の勇気へと姿を変え、ぼくのからだにチャージされていたのだった。

 

勇気を出したら、結果、それ以上の勇気をもらえた。

 

時折それを忘れてしまうけど、思い出すのだ、もう充分に「持っていた」ことを。

 

だから、なんのことはない、
ぼくはもう全部持っているのだ、必要なものは。

 

ならば、
持ったままただ生き永らえるか。
それとも、出しきって死ぬか。

ぼくは後者を選びたいと思う。

 


ノブレス・オブリージュ。今後も救世主たらんことを。」

 

人間の本質は、愛だと思う。
誰もが、愛を持っている。

そして、愛を欲している。

 

生まれた時、赤ちゃんは善悪の価値観など持ち合わせていない。
泣き叫ぶのは、母や父を困らせたいわけではない。
ただ、愛を乞うているだけ。
愛されないと、たちまちのうちに死んでしまうから。

 

今、赤ん坊から成長したぼくやあなたはどうだろうか?
愛されなくても生きてはいけるだろう。ただ生きるという意味においては。
でも、「いきいきと」生きていけるだろうか…?

 

人はひとりでは生きていけないのだと思う。

 

麦わら帽子をかぶったある少年の言葉を借りると、

少なくともぼくは、人に助けてもらわないと生きていけない自信がある。

 

誰かを圧倒するような力も持っていない。
お金をたくさん稼ぐ術も持っていない。
多少料理は作れるけど、ウソもうまくつけない。

 

いわゆるいっぱしの社会人としての器じゃない。
そんなぼくに一体何ができるかといったら、

 

「こどもを、笑わせられる」。

 

そして、最近あらためてよくわかったけど、
「(育児経験がないにもかかわらず)お母さんたちからの子育ての悩み相談に乗って解決すること」。

 

「親御さん(特にお母さん)の、素直にこどもを愛したいという気持ちを自然に思い出させてあげられる」。

 

それらを指して、
「魔法みたい!」、「子育てをするママたちの救世主!」などとしばしば言ってもらえるようになった。

べらぼうに褒められて、もちろんすごくうれしいのだけど、
自分の中では、ごく当たり前のことをしているだけで、すごいことをしているという感覚はなかった。

でも、どうやら、すごいらしいのだ。
特別なものを「持っている」らしいのだ。

 

ここまで自分アゲをしておいてなんですが、
「どうだ、すごいだろう!」と言いたいわけではありません。
今の心境をなるだけ正確かつ簡潔に言葉にすると、

「どうやらすごいらしいので、どうか、ぼくを使ってやっていただけないだろうか?」という感じです。

 

ノブレス・オブリージュ」という言葉がある。

フランス語で、意訳すると「持てる者の義務」という意味。
既に「持って」いる者には、自らが属する世界に対して果たさなければならない責任が伴う、という考え方のことだ。

 

世界を今よりもよくすることができる「力」を持っているのに、
それをしないのは世界の損失なのだと思う、というようなことを以前にも書いた。
ぼくや特定の誰かに限った話ではなく、誰でもがそうなのだと思っている。

 


「風前の灯火」から、「風船の灯火」へ。

 

人のやさしさや、まごころが「灯火」だとして、
ぼくのそれは、誰かのため息ですら消えてしまいそうな、弱々しい「風前の灯火」でした。
それがいまや、誰かの消えかかる火を蘇らせる、強くすることができるということを、知りました。

 

こどもの笑顔を咲かせるためなら、風に乗ってどこへでも、海の向こうへも行ける風船のようなフットワークはそのままに、たくさんのこどもたちや「あなた」のハートに火をつけ回る「風船の灯火」になりたいと思いました。

そしておそらく、それが現時点で最も効果的な自分の活かし(生かし)方だと思う。

ただ、
残念なことに風船は、自由ではあるものの自身の機動力というものがほとんどなく…。

 

だから、頼らせてください。
ぼくをすでに見つけてくれている人は、
また手を伸ばしてぼくをつかまえてください。

そして、お役に立てたなら(ていうか、立つ)、今度はぼくを必要としている人たちのところへ辿り着けるように、
「うちわ」くらいで構いません、扇いで風を起こしてもらえないでしょうか。

 

わりと文字通りのサンデーピープルになった今、
「自分で自分の風に乗って」いくことももちろんできるんだけど、
より遠くまで行きたいので、「あなた」の力を借りたいです。

自分で立ちながら、「人の間」で生きていきたいです。

 

世界一の何かになりたいとはあまり思いません。

 

ただ、
みんながいないと生きていけないけど、
みんなに助けられながら、みんなを助け、勇気づけられる、

そんな身近なヒーローになら、ものすごくなりたいと、強く思っています。

 

「だいじょばない」こと、なくし隊

こないだ、所属していた放課後等デイサービスにお菓子を買ってあらためて挨拶に行ってきた。
あらためて挨拶といっても結局

「おつかれさまでーす、あ、お菓子買ってきたよー( ´ ▽ ` )ノ」

みたいな感じで、
自分が勤務していないというだけで、気持ちのつながりという点では以前からの延長線上にいるような気がした。
まあそんなに時間が経っていないというのももちろんあるのだろうけど。
でもそういう気持ちでいることで、実際そうなっていくものなんだろう。

 

前回の記事で書いたメッセージボードのことを、
『こどもたち、遊んでくれてるかなー』と気になっていたので聞いてみたら、
「みんな遊んでるよー!( ´ ▽ ` )ノ」とのこと。

 


よかったあ(๑′ᴗ‵๑)

 


そして探したら窓際のテーブルの上に無造作に置いてあった。

 


これも、よかったあ(๑′ᴗ‵๑)

 


どこに飾る/置くとか、どう扱うかは特にお願いしなかったんだけど、

どっか壁にでも掲示したまんまで固定されてるより、ずっといい。
車椅子の子もいるし、あちこち持ってって遊んでもらえてるのなら本望。

 

あれはこどもたちみんなに宛てた「手紙」であり、
既にぼくの手から離れたから、もう「彼ら」のものだ。

 

気になっていたことはもうひとつあって、
『どっか壊れてないかなあ?』と見てみると、
さっそく「だいじょうぶ」の「い」の横んとこがペラペラしていた。笑

 

 

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おわかりいただけるだろうか
(「い」の横が剥がれて浮いてる)

 


さっそくスティック糊とテープを借りて、ちょきぺたして直させてもらった。
(正確にいうとハサミは使ってないから「ちょき」はしてないけど、「ちょきぺた」という響きが好きなのです笑)

さあ こどもたち!もっとハードに遊んでもいいぞ!笑

 


「またこわれたら、直しにくるから気軽に呼んでね〜( ´ ▽ ` )ノ」
とア○リカンホームダイレクト風の電話のジェスチャーをした。
(ちなみにアサノサンホームダイレクトと呼ばれています。ごめんなさい嘘です自分で言ってるだけです。)

 

 


さて、
ここからトーンを変えて、このメッセージボードに関係して最近思うことを。

 

こどもたちに『だいじょうぶ』をメッセージとして送った(贈った)のは、
伝えたいことだったし、ぼく自身が言われたいことばだったからなんだけど、

それは裏を返すと、
今、世界、少なくとも日本という国には「あなたはだいじょうぶじゃない」というメッセージが溢れているから。

そのメッセージが、(おまじないでなく)呪文が、気が遠くなるほど繰り返されすぎて、

「誰も彼も、決してだいじょうぶなんかではない」

という空気が立ちこめているから。

 

個人的には、『風の谷のナウシカ』の劇中の「瘴気」のイメージに近い。
ほんとうに多くのぼくら大人たちが「それ」に侵されてしまっている。


不安や危険、困難があるのはしかたがない。

 

生活範囲の中で起こる、背筋が凍るような怖い事件。
来る日も来る日も、抗いがたい不条理がまかり通っている。
肉眼で確認できないが確実に忍び寄ってくる危険。

 

そうして、カーテンが閉じていくようにゆっくりとその明るさを失っていく未来。
目を背けたくなるようなひどい現実が、目の前にどっしりと横たわっている。
(それらのうち多くのものが「造られた」ものだったりするんだけど、ここでは割愛します。)

 

「心配ごとは決して尽きることはない。」
「怖れろ、怖れたままでい続けろ。」
「他人はお前を傷つける。決して信じるな、疑え。」
「出る杭は打たれるぞ。」
「痛い目を見たくなければ、目立たないようにすることだ。」
「どこへ逃げても同じだ、今いるそこにいればいいんだ。」
「死にたくなければそこから出ようとするな、そのままじっとしていろ。」

「この凄惨な現実を、世界を見ろ。それに比べてお前など、とるにたらないちっぽけな存在なんだ。分をわきまえろ。」

 

まるで希望のない、「圧力」のようにぼくは感じる。


意地悪なんてもんじゃない。
「悪」でしょう。それは。
(もちろん正義/悪という二項対立の「悪」ではなく)

だって、
たとえ「こうしたほうがいいよ」っていうアドヴァイスの形であっても、
それはぼくらに対する思いやりなんかでは決してないもの。
信じてくれていないもの。
陥れようとしているもの。


経済とか、歴史とか、それに連なる現在の国際関係とか、複雑に絡み合っていること。
知ってはいるけど、ぼくには正直わかりません。

 

でも、それらを解決する、
完全な解決に至らなくとも、解きほぐす方に、今より皆が笑える方に持ってくために必要なことがどんなものなのか。

「それ」が、ほんとうはとてもシンプルなんだってことはわかってる。

みんな、信じたいのは「そっち」なはずなんだ。

 

それでね、
放課後等デイサービスに限らず、学校や保育園/幼稚園等、保育や教育の「場」にいる人たちが、
「周囲に、危険に満ちた世界に脅かされること」に対しての危機感だけでなく、
「このままでいること、それによって続いていく未来」に対しての危機感を持つべきだと思う。
いや、本当は、ぼくら大人全員が、なんだけどね。

 

ぼくらを産んでくれた、育ててくれたこと、これを恩とするなら父母たちには、

この恩はきっと「返しきれない」。

だから次の世代に「送っていく」ことしかできないし、それが理にかなっていることなのだと思う。

 

無垢な状態で生まれてきたこども(かつてのぼくら自身)がこの先もずっと笑っていられるように。
それが、望むと望まざるとに関わらず、「大人になってしまった」ぼくらの責任だろう。

 

だからぼくは、
「だいじょばない」を、なくしたい。
「だいじょうぶ!」に変えていきたい。

 

たぶんそっちのが、みんな、いいと思うんだよなあ。

 

前回の記事でこの辺、言い足りてなかったので、続きのつもりで書きました。

青臭いことわーわー書き連ねましたが、

ぼくはこの先も「根っこ」の話をしていきたいです。
最後まで読んでくれて、ありがとうございます!